カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 2月22日(火)
MAGオフィス・地雷原
ツアー4日目の朝、いよいよ地雷原に入る予定の日、バッタンバンは雨が降っていた。
乾季なのに、雨季のような激しい雨。。。4台の車に分乗して、はじめにMAGのオフィスでブリーフィングを受けた。


CMCのオフィスもあるバッタンバンは、かつて首都プノンペンに次いでカンボジア第二の都市だった。プノンペンから撤退するポルポト派が追手を避けるために、数多くの地雷が埋められた地域で、MAGが活動を始めたころは年間1000人以上の地雷被害者が出ていた。
MAGは1992年にカンボジアでの活動を開始した。地雷撤去活動のほか、危険回避教育なども行う。ベルギーやイギリスのNGO、日本のCMC、アメリカ政府などがドナーとして、MAGの活動を支えている。
MAGはいくつかのチームに分かれている。調査チーム(BLS)、不発弾処理チーム(EOD)、実際に地雷撤去活動をするのは地雷アクションチーム(MAT)、CMACの下請けの形で活動する地雷犬チーム(MDD)、地雷汚染地域で撤去活動の前に木を伐採するスクラップカッターチーム(SCT)。
スタッフのほとんどは地元の人々を訓練して雇用している。現在388人いるスタッフのうち、義足の人は36人いるということだった。
ブリーフィングを終え、再び4台の車に乗り込むが、依然としてひどい雨。跳ね上げた泥で、車の後ろの窓は、やがて完全に見えなくなった。私たちが乗っている日本車の四駆も、本来こういう道を走るための車で、日本の舗装されたまっさらな道では退屈だろうな…と、まったくどうでもいいことを思ったりした。

それでも道路は年々舗装されている範囲が広くなり、移動時間もかなり短縮されているとのこと。整えられた国道は思い切り飛ばすドライバーも、凹凸の激しい道はゆっくりと慎重に進み、私たちを安全に確実に、目的地へ運ぼうとする気遣いを感じた。

それはさておき、いよいよ地雷原に到着。
はじめに、自己責任において地雷原に立ち入ることを全員が署名。万が一の場合のために血液型も記入する。
テントの中で標識の色の意味や、地雷や不発弾の種類の説明などを聞く。
何回ものチェック段階があり、慎重な作業が進められていることがわかる。

白:安全なエリア
白・赤:地雷原を区切っている
青:その日の作業のスタートポイント
白・青:スーパーバイザーのチェックが済んだエリア
青・白・青:シニアディマイナーのチェックが済んだエリア
黄・青:3回目のチェックが済んだエリア
赤・青:さらに上の組織であるQAチームのチェックが済んだエリア
黄:爆破処理が済んだエリア
黄・赤:不発弾処理が済んだエリア
赤:金属探知に反応があったエリア(まだ地雷はみつかっていない)
地雷の種類もいろいろあり、角度を傾けただけで爆発するものもある。それらを発見したのち、適切な処置をしなければならない。

なかなか止まない雨のため、私たちはプロテクターの試着などをしてしばらく過ごしたが、実際の地雷撤去現場への立ち入りは、残念ながら中止となった。そのかわり、MAGスタッフで自らも地雷被害者である女性に、作業のデモンストレーションを見せてもらった。
金属探知機で反応のあった処に、白い三角の目印を置く。反応があったポイントから少し手前から土を慎重に掘り進め、反応した金属の正体を突き止める。地雷や不発弾だった場合、三角印を裏返し(赤になる)、ホイッスルを吹いて、周りへ知らせる。
作業を見せてくれた女性は現在30歳で、9年前に農場で働いているときに地雷を踏み、右足を失った。事故の後に結婚するが、妊娠中に離婚。出産後にMAGにディマイナーとして就職することができた。給料はカンボジアの中では良いほうだが、養っている家族も多い。

地雷が撤去された土地は、その村の人々に農地として提供される。1世帯に約0.8haというその土地は、自給自足をしていくには、決して広い土地とはいえない。

しかし、猛暑の中、重いプロテクターを身につけ、集中力を維持しながら危険な作業を果てしなく続けて得られた土地には、何にも代えがたい価値があるのではないかと思った。

数歩先には地雷原が広がっている

地雷原にて日本からの募金を手渡す
ホームランド孤児院
16:50〜21:20 バッタンバン

遠くに、施設の庭で遊んでいる子供達が見えてきた。
私達が乗ったバスが近づいていることに気がつくと、遊んでいた子供達が一気に入口に走り寄ってきた。降りると、そこにはたくさんの子供達が笑顔で出迎えてくれた。

目が合って微笑むと、どうしていいのか分からず戸惑っている子、恥ずかしがって逃げる子、走り寄ってきて私達に興味深々の子、いろんな子がいた。
ここには18歳までの子供達が暮らしている。‘97年から運営が始まったそうで、現在63人の孤児が生活しているそうだ。孤児になった要因は戦争だけに限らず、その他の事情の子もいるとの事。

ホームランドには、子供達が生活する棟、食堂、キッチン、職業訓練をする棟、キノコを栽培している棟などがある。
キノコ栽培
運営費にとキノコを栽培。子供達の食事にも使用されており、1つであれば3000リエル、1株だと1600リエルで販売されている。1週間に2回花が咲き、7カ月経って収穫できるそうだ。

織物造り
作業場からトントンとこの織物は、一部シャツ等の製品化もされており、敷地内に売店があって、手作りの小物等と一緒に売られていた。完成品のクロマーを見せて頂いたが、色合いが優しく、手作りならではの温かみを感じた。大きい物だと1日に2枚、クロマーは1日4枚できあがり、技術の習得には半年かかるという。
夕食の席では、子供達が踊りを披露してくれた。女の子は手足の指の先までも、動きがとても綺麗で、男の子はリズムを取り軽快な動き。大人顔負けの踊りの出来に驚きの連続でした。その後は、みんなで交流。
子供達の笑顔を見ているとそんなことをあまり感じないのですが、私達に甘えてくる様子を見ると、愛情に飢えてる事をひしひし感じます。
その他に、私がネイルをしている事に気がつくと女の子達が一気に集まってきた場面もあった。
その中には、数名ネイル風?(マジックで爪に色を塗っている)をしている子もいて、おしゃれは国境関係なく、みんなが夢中になるものだなと強く感じた。
一人ものすごく私に興味を持ってくれた子(写真左上)がいて、ピンクのビーズを通したネックレスをもらった。話を聞いていると、妹2人もこの孤児院に入っているという。人懐っこく、ヒマワリのような明るく可愛い笑顔の背景に、どんなものを背負っているのだろうか。
帰り際、3姉妹が抱きついてなかなか離れようとしない姿を見ると、胸が熱くなった。


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