カンボジア地雷撤去キャンペーン
TOP 組織概要 国内活動 現地活動 駐在員レポート 支援方法 講師派遣 地雷とは スタディツアー



 2月25日(水) CMCボップイ安倍小学校・エマージェンシーホスピタル・AWC孤児院訪問
CMCボップイ安倍小学校

  バッタンバン州モールセイ郡ボップイ村にあるCMCボップイ安倍小学校を訪問。学校までバッタンバン市街から約 1時間半、国道からボップイ村付近は、道路状態が悪くかなりのアップダウンに閉口した。 それでも、学校建設当時は国道も舗装されておらず、片道3時間ほどかかっていたというから随分改善されている。学校に私たちのバスが着くと子どもたちは、 並んで出迎え、校庭にて整列して迎え入れてくれた。
  CMCソングをメンバーで披露した後、今回福岡県粕屋西小学校の5年生が稲を植え、育て、刈入れまで行い、精米して得た尊いお金で 、ボップイの子どもたちへ制服を届けにきたことが大谷代表より告げられると、生徒たちは目を輝かせていた。

  生徒数177名(登録)現在120名の子どもたちがこの小学校で学んでいる。3つの教室があり、それぞれの教室の後ろの壁には、水彩画(昨年学んだ)が掲げて あり、どの絵にもカンボジアの豊かな自然、水田を描いてあった事が印象に残る。
  もらった制服をすぐに出して着てみる子、とても嬉しそうに試着し、サイズの合わない子は、先生やツアー参加交換してあげたりと忙しい時をすごした。
  制服はカンボジア国内で作らせた物であるが、不良品も混じっていた。 スカートのファスナーがとても使いづらそうだった。子どもたちがそれまで着ていた服は、とても汚れていて何ヶ月も洗っていない様子。手足は汚れ裸足の子どもが多く、 それが普通だった。
  スタディツアーのメンバーが新聞紙で兜を作ると、あれよあれよと列が出来、僕も私もと折ってもらい、 それを被って喜び、はしゃいでいた。 鶴や風船、日本でやらなくなった遊びをとても喜んでくれてうれしった。中には、折り方を習っていた子もいた。 また、粕屋西小学校の生徒の精米作りの様子をDVDで見せると、子どもたちは真剣な眼差しでそれを食い入るように見ていた。
 何を感じたかわからないが、少しでも子どもたちの心に日本の子どもたちの応援の気持ちが伝わり、生きる道を自ら考え、成長してほしいと思った。最後に新日本製薬さんからの栄養剤がプレゼントされた。

エマージェンシーホスピタル
 1998年設立。イタリアのNGOが運営している病院で戦争、地雷被害者の診察を無料で行っている。また地雷被害者の雇用も行っている。2009年は1日平均20〜40人の外来患者の診察、9件の手術を行った。稼働率は80%で軽症患者は他院へ搬送している為、常に緊急時に備える体制ができている。
  交通事故の患者も増えているが今月は地雷被害が4件、不発弾の被害が3件運ばれていた。病棟は109床あり、ICU9床、A棟47床、B棟26床、 C棟25床、退院後の傷の消毒や義足のチェックの為のF棟がある。A棟は4名、他の病棟は2名の看護師が 担当している。患者が最初に運ばれる救急部はカンボジア人医師が1名常駐し、派遣された医師が2名オンコールで診療する。日本の病院とほとんど変わらない印象だった。
  X線撮影は1人の放射線技師、リハビリは5人の理学療法士が担当している。検査室では1人の検査技師が血液型・輸血検査、血液一般検査、尿検査、感染症検査を行っている。輸血用血液は温度管理された冷蔵庫に保管され、採血日、有効期限の記載があり適切に管理されていた。カンボジアではB型O型が多くA型、AB型は少ない。Rh型はほとんどが陽性の為、考慮していない。
  前日のAM11:00に地雷被害にあった患者にお会いした。事故から1時間後に近所の人によって近くのヘルスセンターに運ばれたが、処置ができない為3時間後この病院に運ばれた。手術時間は1時間ほどで、3日後には傷の再洗浄の手術、10日〜2週間後にはリハビリを開始する。地雷があるかもしれないとわかっていながら農作業をし、被害に遭ってしまっても早く帰って仕事をしなければいけないという農村部の現実があった。
  入院期間の短さ、検査項目の少なさには驚いたが、必要最低限の設備で患者にとって重要なものは日本と変わらない方法で治療を行っているとてもすばらしい病院だった。
 最後にCMC大谷代表より支援金として5,000ドルが手渡された。

カトリック教会内AWC孤児院
 ここでは現在51人の子供を受け入れており、その中で17人が地雷被害者である。孤児院では子供たちは数学、英語、クメール語(国語)の他に週に3回伝統舞踊を習う。比較的綺麗な施設であり、建物の二階にはボランティアが宿泊する部屋も用意されている。
 中庭の小さな運動場では、障害を持った子も持たない子も一緒になってサッカーをしていた。障害を持った子供は義足や松葉杖などを自由に使いサッカーを 楽しんでいた。
 ここの孤児院のシステムは、村に行って障害を持った子供たちを連れてきて、職業訓練を受けさせる、といった具合である。子供は大学まで行かせるが、 途中で辞めたければ他に職業訓練を受けさせてもらえる団体を探すなどの対処をしている。受け入れにあたっての年齢制限は原則ないが、あまりに小さな子供は 受け入れてない様子である。

           左がラタ・ナック君、右がタンさん
 ここで二人の地雷被害の子供達と対面できた。一人はタンさん、15歳の女性である。彼女はアリを捕まえている最中に地雷被害に遭遇してしまった。被害から 7カ月後にスペインで地雷被害のブリーフィングを行っている。将来はクメール語の教師を志望している。義足の交換は8回目である。
 もう一人はラタナック君、「ボイス・オブ・ハート」のポスターにもなった13歳の男性である。3年半前に川で不発弾に遭遇し、右手と目の視力を失った。視力は90%失っているが今は本が読めるという。 被害に遭遇してからなかなか学校に通うことができず、一年生から学びなおし、今は小学二年生である。将来はサッカー選手か医師になりたいという。
    カンポチャの会の皆さんと記念撮影


Next


Copyright ©Cambodia Mines-Remove Campaign All Rights Reserved