カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 2月24日(水) MAGバッタンバンオフィス訪問・地雷原視察
 MAG (Mines Advisory Group) 
   7時。責任者よりカンボジアにおける地雷問題について説明を受ける。組織の概要と地雷撤去作業状況につての話を聞く。 ’75年〜’79年クメールルージュの支配が終わって、以後’90年あたりまでプノンペンを追われたポルポト派が西へ西へと移動し、バッタンバン 方面へと移ってなお激戦が繰りひろげられたため、同州の地雷の数はおびただしい。  MAGは英国に本部を置き、バッタンバンでは’91年より地雷撤去活動を始める。当初、年間500〜1,000 人 ほどの地雷被害者が出たが、今ではかなり少なくなっているとのこと。国内地図で地雷撤去済み地域、現在活動を行っている所、今後の予定地、 ディマイナー (地雷撤去作業班)の所在地などの色分けした分布図を見た。
   MAGはいくつかのチームに分かれて活動している。
・・MATチーム=実際の地雷撤去するグループ で、地雷発見・撤去・安全確認・医療に関わるMAGでのベースラインで、1チーム15人で活動。その中に地雷被害者や女性が配属されているチームも多いという.
・・省察チーム=地域の状況を把握、調査、判断するチームで、4,500kuの地域を10年かけて優先順位に従って進めていく。
・・地雷チーム=CMACから機会を借りて活動。
・・草刈チーム=無線で誘導していくテンペストという機械を使い活動。1チーム12名で取組み、新しい機械が来るたびに新チームが編成されるということだった。 C MAGは撤去した後の土地利用までを考えていく組織だとのことだが、当初、活動者が500名いたのに今では235名と激減している。また、各国からのドーネーションが減ってきており苦戦を 強いられていると嘆いておられた。毎年視察する地雷原が違うのだそうだが、今日我々が行くところは撤去予定地4ヵ所のうち、一番タイ国境に近いパイリンへ移動。
 MAG地雷原
  バッタンバンから98キロメートル離れた、タイとの国境にちかいパイリン特別州へ。 未舗装の道を走るため4WD車に分乗し、2.5時間かけてひた走りに走る。と、いいたいところだが、思いのほか埃高き道路で、前を走る大型トラック が舞い上げていく砂埃で視界は最悪。前の車が全然見えないというのは怖いことこの上ない。胃袋がひっくり返りそうなデコボコ道を前後に左右に体を揺られながら地雷原を目差して行く。然しながら、毎
年道路事情がよくなっていて、時間も随分短縮されてきているようだ。
  たどり着いた地雷原は、何と見渡す限り広い、広い大原野。一見のどかに見える農村地帯にどれほどの地雷や不発弾が埋められているのだろう。 まず、我々は地雷原に入る前に、自分の命の責任は自分でということで、少しばかり」緊張しながら書類に血液型を記入し署名をした。
  10時半よりMAT1 チームの責任者からこの地雷原についてのこと、撤去状況、地雷原に立てられている標章等についての説明を聞く。このチームには15名いるが、内4名が女性、地雷被害者が3名いてその中の一人は女性だ。 パイリン特別州は24kuの広さを持つエリア。タイ国境近く先住民クラン人、ラオ人、クメール人のいる古い村であったが、’75年から’89年に至っても政府軍とクメー
ルルージュとの戦いで激戦地となり、人々はラタナモンドール州へ移住したり、中にはタイに逃げて行ったりして ’88年頃には居住者がいなくなる。’93年には戻って来たが、戦いは止まず再度避難した。ポルポト派の拠点となり支配地であったこの地は、現在ポルポト系の6家族が住んでいる。住人36人が地雷、不発弾の被害を受け、内8名は手足を失っているという。’09年12月より始まり’10年3月5日に完了する予定とのことで、この66,700uの地域には3家庭19人(大人8人・うち女性4人、子ども11人)が住むことになっているとのことだった。
    標章について:

・黒 反応したが釘や鉄片などで問題なし
・赤 地雷、不発弾がまだ見つかっていない所
・白 安全地帯 
・赤白 地雷原 2m間隔に差していく
・青 ディマイナーのスタート地点
・白青 クリアーにした所
・黄 地雷撤去処理済 
・赤黄 不発弾のあった所
 
 下から色分けして一段づつ確認、チェック段階が厳しく、慎重に作業が行われていることがわかる。
   地雷撤去作業のデモンストレーション地雷撤去作業のデモンストレーション : 

 まず探知機が政情に機能しているかを確認して から作業を始める。1m幅の所を10cmづつ進んで行く。
  探知機が鳴ったところに白の三角板を置いて何度も調べながら何が反応しているのかを判断する。 1cmの鉄片にも反応する。地雷と分かったら白を赤の三角板に替える。地雷は2kg位の重さがかかると爆発する。炎天下でこの動作を繰り返し行うには相当な神経とエネルギーが必要で気の遠くなるような作業だ。
  地雷原での撤去作業エリアには、ツアー参加者が一度に多く入ると危険なので、3班に分かれて交代して入って行った。プロテクターとヘルメットを着用する。これは直接被害に遭った場合には残念ながら役に立たないが、側にいた際の二次被害を避けるためだということだった。実際に装着して歩くとこの炎天下、重い鎧を着けているようでヨタヨタ、頭からすっぽりヘルメットをかぶりフラフラ、よろけて道からはみ出さないようにと気をつけて歩いた。途中、赤い三角板を見つけた。パイナップル型の対人地雷が土の中から一部を覗かせていた。今朝見
つけたもので、我々が視察し終えた後に爆破処理された。200m離れた所で見守るなか、爆破予告の警笛が長く3回短く3回鳴らされた後、つんざくような爆音とともに凄まじい勢いで炸裂し、爆風が高く舞い上がっていくその威力にぞっとした。無差別に人を痛めつけ人生を台無しにさせる、正に地雷が悪魔の兵器と呼ばれる所以である。
 
 ディマイナーの中に、自らが被害者であるクーン・ソォッコンさん(29)がいた。彼女は2002年2月にタイの
農場(国境付近)で働いているときに地雷を踏み、右足を 失つた。事故から一年後、彼女は運よく結婚す

る(地雷被害者では稀)が 、妊娠2ヶ月のとき、突然旦那から離婚を迫られ、離婚した。旦那の言い分と しては両親や親戚から認めてもらえなかったという。 そんな嫁をもらっても働けないし、お金も稼ぐこともできない、一生苦労して生きていかなければならないと言われたそうだ。彼女は子どもを無事出産し、MAGにデ イマイナーとして就職できることができた。妊娠して子ども生んだことを旦那があとから知り、彼女の元に戻ってきましたが、彼女は旦那を拒んだという。 現在、彼女は最低でも140ドル/月(カンボジアではいい額です)を稼ぎ、家族を養 っている。
 この地雷原での視察及び爆破作業の様子を見学した後、MAGに支援金として1万ドルをお渡しする。
  帰りの車中、広々としたこの農業地帯が開墾され、作物が一面に育ち豊かに育っているイメージを描きながら、この地雷原にさよならをした。スタッフの方からこの地で育った青々としたバナナを頂いて帰った。バナナの樹は激戦の時を、また 地雷原と化したこの地での一部始終を、ずっと見続けてきたのだと思うと胸に迫るものがあった。  青かったバナナも、帰国前にはすっかり黄色に色づいてちょうど良い食べごろに。皆で飛行機の出発を待ちながら頂いた。とても美味しかった!

 一日も早く水の整備に朗報を得て、住民が安心して農作業に勤しみ、豊かな土地になりますように。

 2月24日(水) 孤児院ホームランド訪問
孤児院ホームランド訪問
  西洋人夫婦がぼランティアで来ていた。責任者は留守。付くや牛や犬までが出迎えてくれた。すでに屋外に舞台セットが設えてあり、音楽が流れていた。早速に子どもたちが作ってくれたという春巻きや生春巻き、フランスパンにカレー、スープ
・・・と次々に盛りだくさんの料理が運ばれてきて、食べきれない位だった。
 子どもたちのアプサラダンスを見せてもらった。リズム良く乗っている子気恥ずかしそうにテレながら踊っている子と様々。光永さんのバレーもここで演じてもらえてよかった。子どもたちは衣装と体の動きの美しさに見とれていた。
  子どもたちのアプサラダンスを見せてもらった。リズム良く乗っている子気恥ずかしそうにテレながら踊っている子と様々。光永さんのバレーもここで演じてもらえてよかった。子どもたちは衣装と体の動きの美しさに見とれていた。
  ここにいる子どもたちは、親がいないからというよりもエイズ問題とか貧しくて親と暮らしては人身売買などの問題が起こるということから預けられているとのこと。この日は交流会だったので、子どもたちの日ごろの生活が良く分からなかったが、どの子どもたちにも日々の生活の中で少しでも心和むものがあるように、と願う。ここでも、資金作りのための手作りの製品が販売されていて、帰り際お土産にとそれぞれ買って帰った。NHKでこの孤児院ホームランドが紹介されてから数十万ドルもの寄付が集まったと聞く。報道の力の凄さを感じた。


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