カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 2月21日(日) 各地からタイ経由でカンボジアへ
第14次スタディツアー 出発

 
 CMC第14次スタディーツアー第一日目の22日は東京、名古屋、福岡からそれぞれ、バンコク経由でカンボジアの首都プノンペンに入りました。
 写真は、福岡空港発の参加者と、見送りに来たCMC支援者の皆さん。プノンペンの空港に到着した後は、各地から来たメンバーが合流し顔合わせを行ないました。
 2月22日(月) ツールスレーン収容所・キリングフィールド訪問
トゥールスレン収容所訪問
 トゥールスレーン収容所 (当時はS−21と呼ばれた)。
今回私たちが訪れたその場所は、首都プノンペン、多くのオートバイが走り、商店が立ち並ぶ町の一角にある。1975417日、 ポル・ポト政権によりつくられた。民主化の芽となる知識人を拘束し、拷問した場所である。
 1979年までの虐殺による犠牲者は全体で200万人ともいわれ、また、家族の犠牲者を含めるとその数は定かではなく、 トゥールスレーンでは外国人も9人がその犠牲と なった。今回訪れた場所以外にも、167箇所の収容所があったそうだ。そして3ヶ月から半年の拷問の後に行き着く先は、15kmはなれたキリングフィールド(処刑所)である。
 収容所に到着し、門をくぐると高い木と花が咲く広場がある。その奥には古いコンクリートの建物がみえた。規則正しく 並んだ ドアになぜか馴染み深い感じがした。それもそのはず、 その場所はかつて学校だったそうだ。衝撃だった。多くの収容所は寺や学校を利用したと いう。
  敷地内に入ってすぐ男性を紹介された。チュンマイさん78歳。1979S21解放まで生き延びた数少ない生存者の一人である。 力強くはっきりと私達に語ってくれたその姿が目に焼きついている。チュンマイさんは当時48歳。連行された時の様子を話してくれた。収容所につくとすぐに下着一枚にされ写真を撮られる。手を後ろで縛り、目隠しをされ独房に連れて行かれた。目隠しされている為、階段を上るときは耳を引っ張って引導されたという。
 私達はまずA棟へ。拷問のあった場所だ。天井は高く、部屋は10数人入っても余裕がある。部屋の中央に 鉄のベッドと壁に写真が 一枚。床には血の跡が黒く変色して残っている。チュンマイさんはベッドにある鉄の棒を手に取ると、拷問について説明してくれた。鉄の棒と あわせC型の器具で足を固定する。そして、爪をはぎアルコールにつける。指を折る。その他、電気ショックや動物(サソリ・蛇)を使った拷問もあったそうだ。拷問は歩けなくなるまで続いた という。拷問によりチュンマイさんの右の耳は今も聞こえないそうだ。壁の写真は、拷問による被害者の写真だった。鮮明ではなくてもその酷さ は、ひと目でわかる。人間がそこまで残酷になれるとは信じられなかった。
 B棟には、写真や拷問器具が展示されていた。収容者の顔写真で、女性や子供もいる。その顔は無表情で曇り、正面を向いている目はまるで私の方をみつめているようでドキリとする。子供は恐怖の中顔を歪め、必死に母親のそばにいる。全ての写真からその無念さが伝わるようだ。
  C棟へ進む。独房。チュンマイさんはNO.22へ収容されたという。レンガが積み上げられ造られたわずか横0.8m、縦2m の独房。座ると両側には全く余裕がない。その中で、彼らはしゃべることはもちろん、泣くことや動くことすら許されなかったという。食事は12時と17時の水粥のみ。入り口から伸びる足かせの鎖。錆びた銃弾の箱(排泄用)。じっと膝を抱えて拷問の時を待つしかなかった彼らの絶望は想像を絶するに違いない。
 思い出すだけで辛いに違いない経験を語ってくださったチュンマイさん。彼は最後に「是非、日本に帰ったら多くの人に伝えてほしい」とおっしゃった。まさに今回知りえた事により私たちが出来ることは、ただ悲劇に悲しむのではなく、その事実を知り受け止め、今後二度と同じような悲劇を繰り返さないよう努力することではないかと思った。
キリングフィールド訪問
  キキリングフィールドに着くと、門の前にラオスを訪ねた時に見たことがあるような塔が、空を突き刺すように立っていました。ここが撲殺された約9千人の御霊の眠っているところかと思うと心が痛い、まだ収容されていない(遺骨の)穴が43カ所もあるらしいとのことでした。30年前に人々が恐怖におののいたところです。
   出発の二日前に義兄の葬儀に出た身にとってはこの塔の御霊に南無阿弥陀仏と無意識のうちに唱えていました。1979年ベトナム軍が侵攻してこの地に来た時に残されていた1台のトラックが発見され、処刑された所の証拠になったと聞きました。3〜6ヵ月の間、トゥールスレーン の収容所で尋問拷問され、その後夜になって一日30人もの人が4人一組の足かせにつながれながらやって来たのでしょうか?当時ここは湿地帯であったこと、私たちが説明を受けながら歩く道も、砕けた骨と当時の衣服の切れ端が土の中から出ていて、歩くのも心苦しい。
 途中に450人もの撲殺遺体があった穴、女・子供だけの穴、打ち付けられて殺された子供の血を吸った木、 悲鳴や声をカムフラージュするために拡声器で音楽を流していたといいます。完全に殺すために3人一組になって殺していたクメールルージュ。 殺すときに出血が少ないように食事を制限、水粥と少しの水だけだった。戦争で人間の心がなくなる、本当に切ない話で 気が滅入ってしまう1日でした。


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