カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 2月22日(日)、23日(月)
22日 第13次スタディツアー 出発

福岡空港にて 
CMC第13次スタディーツアー第一日目の22日は東京、大阪、福岡からそれぞれ、ホーチミン経由とバンコク経由でカンボジアの首都プノンペンに入りました。
長袖でプノンペンに到着したメンバーは、カンボジアの蒸し暑さのため、すぐに半袖になりました。
プノンペンの空港に到着した後は、各地から来たメンバーが合流し、交流会を行ないました。
23日 トゥールスレン収容所・S21
1975年4月17日から1979年1月7日までの3年8ヶ月20日間、カンボジアはポルポト政権下にあり、なんとも悲劇、残酷で実話とは考えがたい『魔』の期間である。
その現場のひとつである“トゥールスレン収容所”。
1962年に設立された高校は、1976年に尋問・拷問をするための刑務所となり、現在は当時の残虐行為をありのままに残した博物館となっている。

トゥールスレン収容所入り口

今でも塀の上には鉄条網が残されたままになっている
博物館の建物は5棟あり、外への出入り門は一つ。
塀の上には高く「鉄条網」がかけられ、電流が流れるしくみになっているため脱出は不可能であった。
全く罪のない人々が殺される前に来る場所、それがこの収容所である。
つまり、生きては帰れない・・・
当時、人々は「殺される」のではなく「破壊される」と表現され、草の根を絶やすように、男性も女性も幼児も家族皆殺し。
特に、エンジニア・医者・僧侶・先生といった知識人と呼ばれる人がポルポト軍へ反撃する可能性があるとみなされ命を奪われていった。
その数、およそ200万人・・・
カンボジアでは多くの人が家族・親戚など身内の誰かがこうして命を奪われた犠牲者を持つとされる。
知識人を多く失ったことで、それぞれの指導者の不足により、国の発展に影響が出ている。

この収容所に連れてこられると、ひとりひとり写真を撮られる。
頭を固定され、背筋をのばしていすに座らされ、正面からの無表情な顔写真である。
この博物館には6000枚以上の写真が提示されていた。
ポルポト軍は、尋問のおきてを10項目挙げている。

1:質問されたことに対して答えよ。(話をそらさない)
2:隠し事はするな。尋問係を試してはならない。
3:わからないフリをするな。
4:時間を稼がず、質問にはすぐに答えよ。
5:自分の不道徳や革命論を語るな。
6:電流を流されている間、泣きさけぶな。

三ヶ国語で説明されている尋問のおきて
7:尋問係が指示するまで何もせずに座って待て。
  命令がないときは静かに待ち、指示したことは文句なしにすぐにやれ。
8:元の大きなカンボジアの話をするな。
9:全ての規則を守れ。さもなければ、電気を流す。
10:もしこの規則に反すれば、10回の電流か5回の電気ショックを与える。
とはいえ、尋問に素直に答えようと答えまいとどちらにせよ、幾度となる拷問、結果は処刑である。
独房と言われる、人ひとりが横たわるのもギリギリなくらいの空間に鉄の足かせに両足を固定され、尋問と残虐な拷問を受け、収容所に入ってから政治的な囚人は6〜7ヶ月で処刑、それ以外の囚人は2〜3ヶ月ほどで処刑になったという。
囚人たちはムチで幾度となく叩かれ、電気ショックを与えられ、爪をはがされた後、アルコールにつけられたり、足をロープでくくり逆さに吊られ、頭を糞尿の樽につっこまれたり・・・
女性には性的暴行なども行われたという。
もはや、人の扱いではない。
囚人の中には尋問・拷問に耐えきれず、自殺を図ろうとする者もいたそうだが、独房の棟には針のようなとげ金網がかかっており、拷問を避けることはできなかった。
【A棟】
部屋に入るとまず目に付くのは鉄製のベッド。そして足かせ。床には黒ずんだシミ痕。
ここではポルポト政権の重要な立場だった人達への拷問が行われた場所である。
彼らは、裏切り者やスパイと疑いをもたれたようだ。
ベッドの近くに小さな箱のようなものがあった。それは囚人達の糞尿などを入れるために使われたという。ポルポト軍は囚人達に与えた食事の量に対して糞尿の量を測った。
壁には、拷問を受けおびただしい血を流して亡くなった囚人の写真。当時の生々しさを伝えている。
窓側には机といすがあり、尋問・拷問の記録を残す書記係が使っていた。

拷問のあった部屋に入り
必死にメモをとる参加者たち

同じ人間がしたとは信じ難い
当時の拷問の様子
【B棟】
部屋いっぱいに収容者たちの顔写真が掲示されている。ひとりひとりに番号がふりあてられていたようである。幼児の写真もあり、女性・老人など年齢層は幅広い。
部屋の角には、顔写真を撮るときに使われた道具が展示されている。これは、収容者の頭の位置を固定するための道具だという。

収容されていた子どもたちの写真

拷問を受けた人々の写真
【C棟】
狭い独房が並んでいた。ひとつの教室に11の独房があり、出入り口には足かせをかけるフックが残されたままである。独房は大人ひとりが横たわると動けないほどの狭さで、隣の独房とはレンガのようなもので高い位置まで仕切られている。
壁には当時のことわざがそのまま残っており、以前は高校の教室であったことを感じさせる。
ことわざ:@上には上がある。
      A力を合わせれば強くなる。

当時の様子を独房に入って再現するチュンマイさん
【D棟】
拷問に使われた道具と、その様子を生き残った画家が絵描いたものが展示してある。
カラダの一部をペンチで切ったり、サソリに刺されるように仕掛けたり・・・
拷問の全てが考え付かない行為であり残虐すぎて言葉が見つからないくらいであった。
C棟を見学中に、この収容所で唯一生き残ったとされる7人のうちのひとり、チュンマイさんに遭遇。
彼は、ポルポト政賢中の出来事、自分が受けた悲惨な拷問や当時の状況などをたくさんの人に次世代の人たちに知ってもらえるよう、自分自身で直接語るためにS21を訪れているという。
チュンマイさんは当時、『No.22』という独房で入れられていた。    
鉄製の足かせできつく固定されていたのか痛々しく、右足の爪ははがされたと見せてくれた。
ムチで何度も何度も叩かれ、電気ショックでは頭が痛くなり顎や体が大きく揺れるほど強いものだったという。
彼は今年始まったポルポト裁判の証人として参加している。当時の状況の証言や彼自身が収集している事実関係もある。

彼は次のように語ってくれた。

『日本の援助が一番大きく、とても感謝している。また日本からトゥールスレンを訪れ、ポルポト時代のことを少しでも知ってもらえることが嬉しく、こうして対面できたこともとても嬉しい。ここで知りえた事実を日本に帰っていろんな人に伝えてほしい・・・』
チュンマイさんは生き残った7人の集合写真の前で、これが自分であると指差してくれた。
※各収容者の当時の仕事内容(写真の左側より)
一人目(現生存者):チュンマイさん/メガネ製作
二人目:大工
三人目:彫刻(ポルポトの顔像も手がけた)
四人目(現生存者):画家
五人目(現生存者):画家
六人目:ベトナム語通訳
七人目:メガネ製作
チュンマイさんは現在一人の時間を寂しく過ごしており、トゥールスレンで大勢の人に出会い、話しを聞いてもらえることが嬉しいそうで彼の表情に表れていた。


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