カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 2月17日(日)、18日(月)
17日 第12次スタディツアー 出発

福岡空港にて 石原さん(中学2年生)より支援金が大谷代表に手渡される。
CMC第12次スタディーツアー第一日目の17日は東京、大阪、福岡からそれぞれ、ホーチミン経由とバンコク経由でカンボジアの首都プノンペンに入りました。
長袖でプノンペンに到着したメンバーは、カンボジアの蒸し暑さのため、すぐに半袖になりました。
プノンペンの空港に到着した後は、各地から来たメンバーが合流し、交流会を行ないました。
18日 MAG本部表敬訪問、トゥールスレン収容所、キリングフィールド

MAG本部の代表と対談
カンボジアに入国して2日目、最初にCMCのカウンターパートナーであるMAG本部を訪問した。
MAGは16年間活動しているMAGはイギリス(マンチェスター)のNGO団体で、カンボジアで活動している地雷撤去NGOの一つであり、7つの州と地域で活動している。実績は1992年から2007年までで、23,189,235uもの土地をきれいにし、42,867個の対人地雷、466個の対戦車地雷、120,504個の不発弾を爆破処理してきた。
ツアー4日目に私たちはこのMAGが地雷撤去を行う地雷原へ足を踏み入れる。
次に向かったのは、プノンペン市内のトゥールスレーン収容所。1975年〜1979年までのポル・ポト政権時代に市民、特に反革命分子と見なされていた政治家や医者、教師などを強制的に収容し、拷問による自白を強制した場所である。当時ここトゥールスレーン収容所では約17000人もの人々が拷問・監禁され、そのうち生き残ったのはたった7人だけだという。カンボジア全国にはこのような収容所が全部で167ヶ所、処刑場が343箇所もあった。

当時、拷問を受けていた人々の写真
当時の悲惨さを物語っている
ここはポル・ポト政権時以前は高校の校舎として使われていたところだ。
まず、我々は拷問部屋に足を踏み入れた。部屋の中心に錆びれた鉄製のベッド一台があった。壁には当時このトゥールスレーンがベトナム軍により発見された時に撮られた写真が飾られてある。その写真を見ると、ベッドの上に何か横たわっている。それはよく見ると人であった。人の姿には見えないくらい拷問され、死んでしまったのだろう。ベッドの下には大量の血が流れ落ちていた。
ベッドの上には鉄製の太い棒のような金具と小さな鉄製の箱が置かれてあった。この金具は拷問を受ける人が逃げ出さないよう、足を固定させるための物である。もう一つの小さな箱、これにはマシンガンの弾が入っていたのだが、拷問を受ける人のためのトイレとしてこの部屋では使われていた。、トイレに行くと言いそのまま自殺する人が増え、それを阻止するためにこの箱をトイレ代わりに部屋に置いた。

独房は、畳1枚の大人では横になる事も難しいほどの広さで、当時は立ったまま、足には鉄製の金具で固定されていたそうだ。人を人として扱っていない、まるで牛や馬を扱うようなものである。

独房。ここに人が収容されていたとは、
あまりに残酷だ
「トゥールスレーン収容所」から次は「キリングフィールド」へ向かう。ここはいわゆる処刑場である。「トゥールスレーン収容所」に収容され、残虐な拷問を受けた後に処刑される場所。
キリングフィールドに到着してまず目に入ったのは、高い慰霊塔である。そこには8985の頭蓋骨が祀られている。我々は献花をし、犠牲者の冥福を祈った。
ここの「キリングフィールド」には129の穴があったそうだが、現在見つかっているのはそのうちの86箇所だけである。一番大きな穴には約450人もの遺体がここに埋められた。
私たちが歩いていた所にもまだ人骨が埋まっていた。途中、土の中に埋まっている布切れのようなものを見つけた。実はこれらは処刑された人々が着ていた服であった。

我々のガイドであるカンボジア人のブティさんもポルポト政権時の経験について涙ながらに語ってくれた。当時、彼がいつも神様にお願いしていたことは、早く家族と一緒に暮らしたい、食事を十分に食べたい、早く戦争が終わってほしい、この3つだけで他の事は何も望まなかったという。
このような残虐な行為を行ったのも私たちと同じ人間。人間をそのように豹変させる戦争。私たちは二度と同じ過ちを繰り返してはならない。


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