カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 2月14日(水) MAG地雷原視察
バスはバッタンバンに向け国道5号線を北上する。バッタンバン市は、バッタンバン州の州都で、プノンペンから北西約300kmの所に位置する。以前は道路状態があまりに悪かったため飛行機を利用していたが、2004年のスタディツアーからは、バスになった。道の改善により飛行機の利用者が激減し、航空会社が運行を停止したためである。毎年カンボジアを訪れる度に、日本を始め各国からのODAがどこに消えていくのか不思議なくらい変化の見えなかったカンボジアで国道5号線だけは急速に改善されてきた。
バッタンバン州は、ポルポト軍と政府軍の戦闘が激しかった地域であり、地雷被害が世界的にも最も厳しいエリアに数えられている。
CMCは2002年から事務所をバッタンバンに置き、現地支援を続けている。今年2007年1月19日午前8時45分、バッタンバン州カムリエン郡タサエンコミューンで地雷撤去中のディマイナー(撤去要員)7名が地雷の爆発により死亡した。遺体や遺品、そして肉片が200m四方に飛び散るという大事故は、地雷問題に取組む私たちに大きな衝撃を与えた。原因は対戦車地雷の処理の仕方にあったと推測されるが、現場にいた人間全てが亡くなったため確認のしようがない。CMCの現地職員2名が1週間前の1月12日に視察したばかりで、その時の案内役チェア・ホウンさん(34歳)も犠牲となった。彼女は「夫の足を奪った憎い地雷を自分の手で無くすために撤去作業を続けている」と話してくれたという。犠牲になられた方々の冥福を祈りたい。
地雷原でのチェア・ホウンさん。
この1週間後、事故により亡くなった。
2月14日、朝7時半よりMAGバッタンバンオフィスでブリーフィングを受け、タイ国境パイリン市郊外の地雷原に向かう。国道10号線で約110kmの距離だが、国道とは名ばかりの、日本のどこを探しても見つからないほどの悪路。四駆を6台連ねて向かったが、後続車は砂ぼこりで前が全く見えない。3時間半かけて目的地に着いたときには後ろ2台は行方不明になっていた。パイリン市周辺は、宝石の産地ということもありポルポトが最後まで死守した地域だ。そのためクメールルージュ(ポルポト軍)、ベトナム軍、カンボジア政府軍により多くの地雷が埋められ、内戦終了から10年以上経った今も多くの地雷が残っている。訪れたタナル・カェイン村もその1つで、村の面積5840haのうち19%にあたる1098ha地雷原だという。しかし、ここでの戦闘が終わった1996年以降、タイに逃れていた人々が戻り、今では505世帯3600人もの人が地雷の恐怖の中で生活を続けている。
MAGが調査を開始した2004年からこの2007年2月までに村内に15ヵ所あった地雷原のうち8ヵ所の除去が完了した。その際534個の対人地雷と116個のUXO(不発弾)が発見され、爆破処理されている。しかしこれらの地雷を発見するまでに、金属探知器は765,229回も反応しており、その度にディマイナーは、地に這いつくばっての撤去作業を実施している。地雷か、単なる鉄片かは、その慎重な作業を経てはじめて分かるのだ。実に1177回の作業で1個の地雷、何と0.1%にも満たない確率だ。しかし集中力を欠くと命を失いかねないのだ。
MAG本部にて責任者より、
地雷原の現状についてブリーフィングを受ける

地雷探査をするディマイナー
現地の説明を聞き終え弁当を食べているとき、行方不明だった2台が誘導されて合流した。いよいよプロテクターとヘルメットを装着し、一列になって地雷原に足を踏み入れる。36℃の暑さの中でずっしり重いプロテクターを着けるとそれだけで汗が噴き出してくる。地雷原を表す赤いドクロマークが不気味だ。我々が近づくとディマイナーたちは一時作業を中止し、もしもの事故が起きないようにする。今回の作業で4個の対人地雷、いずれもType72A(中国製)が発見された。早速、導火線を引いて爆破の準備に掛かる。手で直接触ると爆発する危険性があるからだ。爆破のスイッチを、CMC東北事務局の相庭さんが押す。爆破の合図となる笛が長く3回そして短く3回、その3回目と同時にドーン!ものすごい地響きとともに地雷の爆破を終了した。

最後に地雷の無い世界をめざし協働することを誓い合いMAGのディマイナーに撤去資金として1万ドルを手渡し帰路についた。

発見された地雷には赤い三角マークをつける

緊張の面持ちで地雷原を進むツアー参加者


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