カンボジア地雷撤去キャンペーン
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トゥールスレーン収容所 (S21収容所)
(記録)由見裕也 /佐々木康太 /塚本篤史 /波多野真衣

拷問部屋。床には当時の血痕が点々としている。
トゥールスレーン収容所は、現在は博物館として公開されており、ポル・ポト派が行った残虐な行為を物語る写真や絵、拷問に使用した道具が展示され、独房や足かせなども生々しく残っており、床には血が染み付いている。特に拷問の様子を描いた絵は、拷問の非人間性をまじまじと伝えていた。(鞭打ち、水責め、爪剥ぎ、逆さ吊り、サソリ責めなど。)独房の中は畳一畳ほどの小さなスペースで、足かせの鎖の跡や当時使われていた汚れたお椀が置いてあった。又、教室半分程のスペースにはベッドが一台と足を固定する金具や小さな鉄の箱があり、その箱をトイレ代わりに使っていたらしい。
1975年4月から1979年1月までの3年8ヶ月間、ポル・ポト政権が続いた。その政策を妨害する「反革命分子」と見なされた人々及びその家族が、次々に捕らえられ、収容所で拷問を受け処刑されていった。当時ポル・ポト政権は社会主義改革を推し進め、住民の農村への強制移住政策を行った。

その時代を生き抜いた方の話によれば、ポル・ポト政権は「今から3時間後にアメリカがプノンペンに空爆するから都市部から離れろ、例え空爆がなくても3日間はプノンペンに近寄るな。」と嘘の情報を流し、無理やりプノンペンの無人化を実行したという。人々は住む場所が指定され、家族がばらばらに移住させられた。財産は全て取り上げられ、手元に残ったのは服2着とスプーン1個ぐらいであるという。また、人々は毎日ポル・ポト派の監視のもとで日の昇る間中ずっと労働を強いられ、食事は粗末なお粥1杯で十分な栄養が摂れずに病気になる人もたくさんいた。

当時、国内の学校は全て閉鎖された。その一つプノンペン市内に立つトゥールスレーン収容所は、元々高校の校舎であったが、ポルポト政権の時、市民が強制収容され、拷問、虐殺が繰り返された場所である。ここには記録にあるだけで約2万人が収容されたが、そのうち生還できたのはわずか7人である。その7人は例えばポル・ポトの彫刻をつくるなど、ポル・ポトに貢献した者達である。ポルポト政権は都市部に住んでいた人々を分散化しコミュニティの形成を批判し教育の撤廃・近代文明までも否定した。そのため、これからのカンボジアの発展に貢献できるはずの知識人(教師・技術者・僧・役人)もすべて殺されてしまった。

収容された人々はみな収容者名簿用に写真を撮られたが、それらも大量に展示されている。こちらを見つめるかのようなたくさんの犠牲者のおびえた表情に、私は血の気が引いた。犠牲者写真にはポル・ポト兵のものも多くある。彼らは例えば自分の家族を殺せ、というようなポル・ポトの命令に応じなかった者達である。いかに無茶苦茶な政策であったがわかる。
元々は高校であったトゥールスレーン収容所。
キリングフィールド
(記録)由見裕也 /佐々木康太 /里吉謙一 /波多野真衣
収容所で残虐な拷問を受けた後、人々は処刑場「キリング・フィールド」で処刑された。キリングフィールドはそのままの意味で「殺し場」である。カンボジアには多くのキリングフィールドが存在する。
我々の訪れた処刑場は、カンボジアの首都プノンペンからしばらく行ったところにあった。まぶしすぎるほどの太陽に照らされた非常に明るい野原にあり、初めはこの地がとても処刑場であったとは思えなかった。しかし次の瞬間、我々は愕然とした。足元のいたるところに人骨がまるで石や木の枝のように転がっており、犠牲者の衣服の布きれが散乱していたからだ。踏まずには歩けないほどである。人間の尊厳などそこにはこれっぽっちもなかった。また、手首を縛り付けていたと思われる紐も朽ちることなく腕の骨のそばにあった。特に、赤ん坊を打ちつけた木や、犠牲者の悲鳴を紛らわす目的のスピーカーを吊るした木を見たときには胸が苦しくなった。ガイドさんがそのとき流した涙が忘れられない。もはや、「人間」のしたことではないのである。こんなことは絶対にあってはならない。

(左写真) 慰霊塔のまわりには、処刑された人々が埋められた穴がいくつもある
 
この処刑場では遺体は129ヶ所に埋められたという記録があるが、発見されたのは89ヶ所であり、見つかった頭蓋骨は8985個である。それらの頭蓋骨や衣服は1986年から処刑場に建てられた慰霊塔に安置されている。犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りする。
虐殺された人々の衣服や骨を見つめるガイドさん


Vol.3


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