タロウ村地雷原 |
(記録)
金近知明 /
河合梓美
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田口陸奥男 |
ツアー4日目、いよいよ地雷原に入る。早朝、今まで乗ってきたバスではなく日本製の四輪駆動4台に乗りわけ、 MAGのバッタンバンオフィスへ向かった。都市部のプノンペン周辺や観光地であるシェムリアップでは地雷の撤去がほぼ完了し現在地雷による被害はほとんど出ていないが、タイとの国境付近であるバッタンバン州、そしてその近隣地域にはいまだに地雷が残されたままだ。
MAGバッタンバンオフィスを後にし、バッタンバンの南に位置するポーサット州を目指す。30分ほど国道を走った後、車は右折して一本の細いわき道に入った。これからは道路とはとても呼べないような舗装されていない道をひたすら進む。道は凹凸が激しく、車は上下左右に激しく揺れ、何度も頭や体を車に打ち付ける。また乾季で道が乾いているということもあり、砂埃が舞いあがり、前方の視界がさえぎられる。運転手さんが涼しい顔をして運転しているのがとても信じられない。そのようにして悪路を進むこと約2時間、ようやく私たちは目的地へと到着した。ポーサット州タロウ村、地雷が埋まる村である。 |
緊張の面持ちで地雷原に入るツアーメンバーたち |
1970年以降のロン・ノル政権と民主カンボジアとの抗争から、1993年国連の暫定統治機構が入り内戦が終了するまで、この地域一体は戦場となり多くの地雷が埋められたそうだ。戦争が終了してからこの村では地雷により42人の村人が被害に遭い、そのうち25人が死亡。現在撤去作業が行われている地雷原は、広さ8506uで、この範囲の地雷原でこれまでに6人の村人と、30匹の家畜(牛、水牛など)が犠牲になった。撤去が開始されたのは 2005年2月1日で、まだ撤去が開始されたばかりだ。私たちが訪れた2月16日までに、1155uの範囲で撤去を終了し、11個の地雷と8個の不発弾が発見、処理されている。そしてその間、金属探知機には20,186回の反応があったという。見つかった地雷は村の中でも池や学校など、人の生活に欠かせないもの、人が多く集まってくる場所に多く埋められていた。 |
我々が訪問したこの日に見つかった地雷 |
いよいよ本物の地雷原に入る時が来た。入る前に誓約書にサインをする。サインをしてしまえば、万が一のことが起きてもだれからも補償はされない。ディマイナーが身に着けているものと同じ防護服とヘルメットをかぶり、MAG隊員の先導で地雷原に入る。もちろん撤去を確認された場所を歩くのだが、もしものことを考えると足がすくむ。1列になり、地雷原の中を進んでいく。撤去が確認された地点に立てられる杭が何本も立っており、その説明を受ける。そしてしばらく歩くと、地雷の発見を示す赤い三角のマークがあり地雷が顔を出していた。今何かの間違いでこの地雷が傾いてしまったら・・・。そのようなことを考えると、生きた心地がしなかった。このあとも地雷原のなかを歩いて周り、3、4個の地雷を見せてもらった。時間にしたら10分か15分くらいのものだったろうか、地雷原の見学が終わり、防護服とヘルメットをとる。地雷原を出て、やっと地面に足をつけている気になった。このような場所を職場とし、毎日炎天下の中命がけで作業をしている MAGスタッフの方々の大変さをほんの何百分の1ではあると思うが、体験することができたのではないだろうか。 |
今日最後の爆破は CMC 代表の大谷が行った |
昼食をとり終え休憩していると、MAGのスタッフがなにやら大きな声を上げている。村の子供が地雷原のすぐ近くで遊んでいるので、注意をしているらしい。しかし子供たちはなかなか注意を聞こうとしない。地雷の恐ろしさがまだ理解できないのか、それとも地雷があることが彼等にとってはもう当たり前のことなのだろうか・・・。休憩が終わり、今日発見された地雷の爆破処理にたち合わせてもらうことになった。爆破処理を知らせるサイレンが鳴り、周辺にいる人を避難させる。私たちは50m以上離れたところから作業を見守る。爆破の準備が終わり、笛が3回鳴らされる。
ピィーーーー、ピィーーーー、ピィーーーーッ |
ダイナマイトを仕掛けての爆破作業
その衝撃の大きさにツアーメンバーも呆然となる |
ドンッ!!!!
ものすごい爆音とともに、砂塵が何メートルもの高さまで吹き飛ぶ。数十メートル離れている私達が立っている地面が揺れた。今のような爆発が自分の足元で起こったら、自分はどうなるのだろうか・・・。
その後、CMC から MAG へドネーションを行った。地雷撤去を支えているのは世界中から集まるこういったドネーションである、そう実感した瞬間であった。
CMCよりMAGへドネーションを行った。 手渡しているのは岐阜県の中学 2 年生、河合梓美さん。 |