カンボジア地雷撤去キャンペーン
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 3月1日(日)、2日(月) モンドルバイ村、モンドルバイ村希望小学校訪問、アキラ地雷博物館
3月1日(日)
アンコール遺跡観光
午前:アンコール・トム、タ・プローム
午後:アンコール・ワット
3月2日(月)
2009年3月2日、ツアー最終日に、私たちはモンドルバイ村を訪れ、そこにあるモンドルバイ村希望小学校を訪問した。

モンドルバイ希望小学校の入口
シェムリアップは、アンコール遺跡群があり、カンボジアでも観光の名所である。カンボジア政府としては、国際社会にカンボジアをアピールする場所である。そのために、政府は、観光地での地雷被害者、物乞いをなくそうと、彼らを一箇所に集めて、アンコール遺跡群の敷地の中に、村を作った。 その村がモンドルバイ村である。

シェムリアップの町を見てみると、高級ホテルが乱立している。まだ建設中のホテルも多数あった。しかし、その反面、もともとそこに住んでいたカンボジアの人たちは土地を安い値段で買い取られ、追い出されている。追い出された彼らは、行く場を失い、モンドルバイ村に集まっていた。
アンコール遺跡群に観光に来て、シェムリアップの高級ホテルに宿泊し、帰国する観光客は見ることができない現実が、モンドルバイ村にはあった。

この村は、通称「チュンピカ村」と呼ばれている。「障害者の村」という意味である。つまり、地雷で障害を負った被害者が集まっている村という差別的な表現である。
カンボジア人には、モンドルバイという言葉を聞いて理解することができる人が少なく、「チュンピカ」という言葉を聞いて、初めて理解することができる人が多い。モンドルバイ村に入る際にも、ゲートの入り口で「チュンピカ村に行く。」とガイドが警備員に説明して、警備員に理解してもらい、ゲートを開けてもらった。
モンドルバイ村に入り、最初はモンドルバイ村希望小学校を訪問した。
この村の出身者は差別されているため、学校や仕事など、受け入れに制限されることがあるという。だから、彼らに教育の機会を確保するために、この村で学校を作ることが必要だった。 しかし、このモンドルバイ村は、アンコール遺跡群の敷地内にある村。政府が強制的に作った村といっても、村人はいつ立ち退きを強いられるかわからない。そういう状況でありながらも、公立の小学校に通うことのできない子どもたちのために小学校が建てられた。代表は日本のNGO・緒方由美子さんが務める。CMCも支援を続けている。

現在は公立の小学校に通えない200人以上がモンドルバイ村希望小学校に通っている。カンボジアでは、日本と同様、小学校は6年間の義務教育となっている。しかし、ここの小学校では、学校の敷地が広くないことや教師不足により、3年生で卒業をむかえる現状にある。その後、生徒たちは、働くか、運がよければ、他の学校に行き、さらに勉強できる。

日本で当たり前に受けていた義務教育。日本の当たり前がカンボジアの当たり前ではない。
私たちが小学校の門をくぐると、先生や子どもたちが一列に並び温かい拍手と共に『おはようございます!』と日本語で元気よく出迎えて下さった。生徒たちは、この一言の日本語をどんな思いで覚え、練習したのだろうと思い、昨日まで見聞きしたカンボジアの現実が思い起こされ、涙が溢れた。

新しくコンクリートになった校舎
昨年までは枯れ草で整えられていた校舎がいつの間にかコンクリートで整備された立派な校舎へと生まれ変わっていた。その校舎を見たCMCの大谷代表も驚きを隠せない様だった。
整列した子どもたちから大谷代表に感謝状が贈られる。お互い挨拶もそこそこに子どもたちとの交流が始まる。
子どもたちが元気よく校歌を歌ってくれた。私たちは「鬼のパンツ」「幸せなら手を叩こう」を歌い、子どもたちと一緒に踊った。

学校らしいしっかり整った教室
その後、授業風景を見学した。日本の様に生徒全員がテキストを持っている訳ではなく持っていない子も沢山いた。テキストは持っていても、ノートは殆どの子が持っていない様な状況であった。それでも子どもたちは一生懸命に黒板を見つめ授業をうけている。英語が話せる子、クメール語しか話せない子、様々である。
授業風景見学の後、校庭で綱引き大会が始まる。生徒と私たちが入り交じっての女の子対男の子対決。今度は私たち対子どもたち。全力で、体当たりでぶつかってくる子どもたち。彼らのパワーに私たちは完敗!彼らの目は輝いていた。
女の子チームの勝利。
カンボジアでもやはり女子は強い?

再び教室に戻り日本から持参した折り紙で遊んだ。折り紙は瞬く間に売り切れた。「この作り方を教えて!」「あれはどうやって作るの?」と沢山の子どもたちが一度に話し出す。作品が完成するとうれしそうに子どもたちから笑みがこぼれた。本当に楽しい一時であった。
楽しい時間がもっと続けばと心の底から願った。子どもたちと別れを惜しみながら私たちは小学校を後にした。別れ際に、一人の子どもが抱きついてきた。もともと赤の他人である私たちとほんの少しの間一緒にいただけで、こんなにも慕ってくれる子ども。私が日本で生きてきて、こんなことを経験したことはなかった。ただ、ただ、子どもたちの温かさを感じ、子どもたちの幸せを願わずにいられなかった。
子どもたちとの交流の後、
学用品と支援金を手渡した
学校を後にして、私たちは、モンドルバイ村を案内してもらった。村は明らかにシェムリアップの町と比べると、貧しい状況であった。同じ地域にこんなにも大きな格差があるのかと思った。
村で一番貧しいソック・シムさん(68歳)の家を訪れた。彼も地雷の被害者で右足を失っていた。彼は壺を売って生計を立てていた。

地雷で右足を失ったソック・シムさん(68歳)
アンコール遺跡群と高級ホテル、にぎやかなシェムリアップの町というカンボジアの明るい面と、厳しいモンドルバイ村の現実という暗い面。両方を見て、感じ、本当のカンボジアの姿が現れてくる。そんなカンボジアでも、屈託のない笑顔で私たちに真正面からぶつかってくる子どもたちに希望を感じた。


ツアーの最終訪問地、アキラ地雷博物館を訪れた。カナダのNGOにより支援を受けているこの博物館は、私たちが想像する博物館とは違い、入り口には大きな不発弾が立てて並べられており、中には驚くほど多くの地雷が展示され、アキラについての新聞記事がたくさん掲示されていた。
私たちはあまりにも多い地雷の数にただ唖然とするばかりであったが、しかし、非常に多くの地雷の展示とはいえ、ここの地雷はカンボジアのほんの一部に過ぎないという事実がある。未だ地中で眠り、次の被害者を待ち続けている地雷を一つでも多くの地雷を撤去すべく、博物館の館長であるアキラは博物館を不在にする事が多々ある。今回の訪問でも、彼には残念ながら会う事が出来なかった。彼は少年時代、軍隊に所属しており、地雷を埋める立場にあったという過去を持つ。自分が少しでも関与した地雷問題を、今度は生涯をかけて撤去活動に携わっている。昔地雷を埋めていた経験からか、彼の撤去法はまさに神業とされ、地雷撤去の神とも言われている。アキラは地雷撤去作業以外にも、地雷被害者となった子供を自分の子供に加えて育てており、彼らを大切にしているのだ。その子どもたちは人数にして20人ほど。しかし彼は人数など関係なしに、一人一人に愛情を注いでいる。私たちはアキラの活動の成功を祈ると共に、自分自身に出来た個々の課題について向き合っていこうと思う。
その後、「地雷を踏んだらサヨウナラ」で有名になった戦争写真家一ノ瀬泰造の墓を訪れそれぞれの地への帰路につきました。ツアーに参加された皆さんが、単に知識を得たというだけでなく、今後、CMCをはじめ何らかの地球人としての活動に参画される事を期待して報告を終えたいと存じます。



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