2月18日(日) シェムリアップ モンドルバイ村訪問 |
バッタンバンからシェムリアップに向かうには分岐点にあたるシソポンまで国道5号線を、そこからは6号線を通ることになる。国道6号線は首都プノンペンまで続いている。6号線に入ったとたん、道路事情は悪くなり、いつものガタガタ道になる。道路工事は少しずつ進められているが、道路わきでは地雷撤去作業の行なわれている場所もある。今回初めて、6号線に沿って電気の送電線の工事が進められているのを見た。いずれ電気が灯る日が来るのだろう。 |
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シェムリアップはいまや世界遺産となったアンコールワットの観光拠点として世界中から観光客が訪れる。日本人が「カンボジアに行って来た」というと、ほとんどがアンコールワットを訪れたことを意味している。しかし我々に言わせればシェムリアップを訪れるだけではカンボジアを見たことにはならない。観光客のための超高級ホテルが建ち並び、今も建設ラッシュが続いている。道路は舗装され、驚くことに信号が2つ設置された。首都プノンペン以外、どこに行っても信号を発見することはできないし、必要さえないのだ。
シェムリアップという名前は「シェム」=シャム=タイと、「リアップ」=追い出す、からなりタイの勢力を追い出し独立を勝ちとったという思いが地名となっている。今でもカンボジアはタイやベトナムといった隣国に政治的、経済的に大きな影響を受けており、両国に対し好意的でない人も多い。
私たちがシェムリアップに着いた翌日の2月18日(日)は、春節(中国の旧正月)にあたり、オールドマーケットは買物をする多くの人出で賑わっていた。日曜日は学校もNGOも休みなのでスタディツアー参加者には唯一の観光となるアンコールワット訪問を実施、私はその間、翌日の訪問先との打合せを行なった。 |
アンコールワット遺跡群の敷地内、動物園のすぐ近くにモンドルバイ村という600世帯ほどの小さな集落がある。そこには、手や足を地雷で奪われた多くの障害者が住んでおり、遺跡内であることを理由に農業を禁止され、貧しい生活をしている。実は、世界的観光地で障害者に物乞いなどをさせないために、州政府が各地から地雷被害者を集めたもので、いずれ、40km先の山奥に隔離してしまおうという計画だったという。その住民を移動させるための費用を州政府から依頼されたのが、日本のNGOの緒方由美子さんだった。モンドルバイ村で村人達の「もう一度、生きてみたい」という悲痛な声を聞く中で、緒方さんは山奥に移動させるのではなく、この土地での人々の生活を守ろうと活動を始めた。 |
シェムリアップという大都会の近くにありながら、電気もガスも水道も無く、周りの人々からは「チュンピカ村」(障害者の村)といって蔑まれていた村に、緒方さんが作った「モンドルバイ希望小学校」がある。CMCは「希望小学校」ができた2002年から毎年継続して支援を続けている。特に、初年度には校舎の葺き替え費用や遊具設置などの費用を提供し、そのことは新聞にも大きく取り上げられた。それでも狭い敷地や教師不足のため小学校3年生までで卒業というのが現状である。現在6才から15歳までの子270人が1年生から3年生として2部授業で元気に通っている。2月19日朝8時30分、希望小学校に到着した私達17人を緒方さん、先生たち、そして小学校の全生徒が拍手で出迎えてくれた。カンボジア国歌による国旗掲揚から校歌の斉唱、と歓迎行事が続く。 |
CMCソングや「ラッピーヤー」というカンボジアの唱歌などで返礼し、子供たちの授業を参観した後、村の様子を視察した。バイクタクシーに2人ずつ分乗し、地雷被害者や障害を持った人の家庭を訪問し、電池式ランプなどを贈り、電気のない夜を少しでも明るく過ごして頂けるよう励まして廻った。地雷で両足を奪われたソム・アッサンさん(男性、27才)や右足を奪われたトゥーンさん(男性、23才)は仕事がなく、遺跡の中で楽器の演奏をして日銭を稼ぎ、視覚に障害のあるスライさん(女性、30才)はマッサージで生計を立てている。これら貧しい中でも生きようと苦闘している人々に対し、政府はあくまでも冷淡だ。NGOが現地に根付き、支援と監視を続けなければ、いつ強制移住をさせられるか分からない。 |
希望小学校の子供たちと熱くふれあう |
両足を奪われモンドルバイで暮す
ソム・アッサンさん |
学校に戻り、子供たちと大綱引きをして交流した後、子供の代表からこれまでの支援に対する感謝状が贈られた。この子たちが立派な大人となった時、カンボジアがどう変わっているか楽しみだ。 |
思いっきり綱を引く子どもたち |
継続支援に対し子どもたちから感謝状を受ける |
この後、1人で20,000個もの地雷、不発弾を処理してきたアキラの地雷博物館を訪問、アキラに四駆パジェロの購入費用をドネーションした。しかしアキラはその後4月21日カナダのNGOに取り込まれ、アキラの地雷博物館という名称は「カナダ地雷博物館」となり、場所も移転した。内容も充実しており、今後CMCとしての支援は不要となった。 |
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最後にハンディキャップインターナショナルで義足の作成過程などを見学。「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残し、1973年26歳で消息不明となり1982年に両親によって死亡が確認された戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の墓や、昨年シェムリアップにオープンしたばかりのタイゾーメモリアルでその作品に触れ、CMC第11次スタディツアー10日間の全日程を終了した。 |