カンボジア第 2 の都市バッタンバン。そこから国道 5 号線をプノンペン方向へ下ること約 50km で右折、悪路?を行くこと 1 時間半のところにクバルムース村はある。旧ポルポト系に属する人が多いため、現政権からの支援はほとんど期待できない。この一帯は、
1980 年代の内戦時にポルポト軍とベトナムに後押しされたカンボジア政府軍の激戦地にあたり、多くの地雷が残されている。土地もやせているため、農業の生産率は極めて低く、それに追い討ちをかけるように容赦なく自然災害に襲われる。私たちカンボジア地雷撤去キャンペーン(
CMC )がクバルムースにかかわるようになったのは、 CMC カンボジア事務所の責任者であったシモーヌ・クムからの要請による。1998年の結成以来、
CMC は地雷撤去活動推進のため、イギリスの NGO ・ MAG (マイン・アドバイザリー・グループ)をカウンターパートナーとして支援し、地雷被害者支援についてはイタリアの
NGO エマージェンシー・ホスピタルをメインドナー先として支援してきた。シモーヌは MAG のバッタンバンオフィスの副責任者として、私たちを地雷原に案内し、英語で地雷撤去の方法や地雷原の様子を説明する役割を果たしていた。その彼が
MAG をやめ、貧しい村の農業支援をしたいので力を貸して欲しいと私に相談した。村の厳しい姿を多くの人に伝え、支援を・・・という要請にどう応えるかを考えた末に、
NHK に相談した。かつて 2001 年 10 月にシンガポールで開催された「アジアをつなぐ若者たち」という弁論大会のカンボジア代表としてふさわしい人を紹介して欲しいと
NHK から依頼された。その時私はシモーヌの長女ソマラを代表として推薦し、採用されたこともあり、 NHK 九州メディスのクルーがクバルムースに入ることになった。
2002 年春、ついに「アジア人間街道〜地雷の村に緑ふたたび」という番組として結実し、 NHK の全国ネットで放送された。全国からの問い合わせとともに同情と善意が
CMC に寄せられ、クバルムースへの支援活動が始まった。
カンボジアでは一般に 6 月から10月の雨季に大量の雨が降るが、乾季にはほとんど降らずカラカラに渇き切ってしまう。雨季の雨水を蓄え、乾季に廻すことができれば農作物の増産が期待できるが、そのための堰やダム、そして水路などのインフラがほとんど存在せず、かつてあったものも内戦で破壊されていた。また、ここ数年は地球温暖化の影響か、雨季になっても雨が降らず、せっかく実りかけた作物が全滅するということも起きている。
2002 年の夏、まさにクバルムースは雨の必要な時期に日照りが続き、農作物が立ち枯れした後に、今度は洪水が村を襲った。「農民が飢えに苦しんでいる」というシモーヌからの
SOS に、 CMC は各地で緊急のキャンペーンを行なった。マスコミ各社も取り上げてくれ、集まった募金で緊急支援米を届けることができた。支援米はシモーヌの
CMC カンボジアオフィスのスタッフがトラックで運べる所まで行き、悪路のため途中馬車に積み替えて、村まで運んだ。村人はあらかじめ配られていたカードと引き換えに米を渡されたが、これによって137家族791人の命が救われたという。
CMC 現地スタッフは村人から「あなた方は神様だ」といわれ、涙が出たと語った。
しかし、米の支援はほんの一時しのぎにしかならない。クバルムースで農作物が安定して確保できるためには、水を貯める堰と水路が必要だ。 CMC はそれらの建設のためのブルドーザーを贈ることにした。同時に CMC スタッフがバッタンバン市からクバルムースへの悪路を通うためのバイクと緊急連絡用の無線装置を事務所とクバルムースのコミューンリーダー宅に設置した。
翌 2003 年2月 CMC の第7次スタディツアーで全国から15名が私と同行し、カンボジア地雷原や地雷被害者に募金を手渡すため、プノンペンに入った。バッタンバン、シェムリアップとハードな日程で各地を訪れたが、クバルムースでは熱烈な歓迎を受けた。5台の四駆に分乗した私たちが到着すると、村人全員が横断幕や CMC の小旗を手に出迎えてくれた。私以外のメンバーはカンボジアを初めて訪れる人が多く、 CMC がいかに受け入れられているかを知って驚き、そして感動していた。ブルドーザーには「 CMC からの贈り物」と書かれていた。その日 CMC は、ブルドーザーの燃料費や子供たちの学用品、服などを買うための資金と、少雨でも育つジャックフルーツや椰子の苗を贈った。シモーヌは5年計画でクバルムースを実りのある村にしたいと夢を語ったが、そのためには道路や村のいたるところに潜んでいる地雷の撤去と水の問題を解決しない限り不可能である。
クバルムース村のあるモーン地区には7つのコミューン(村落)が存在するがそれらをつなぐ道路と呼べるものはなく、しかも地雷が立ち塞がっている。将来を荷うべき子供たち215人が勉強するための学校がない。そもそも電気やガス、水道といった現代の人間生活に欠くことができないと思われる基本的インフラは何一つないのである。しかしその極限に近い悪条件の中でも村民たちは一所懸命に生きている。砂漠に水をまくような無力感を振り払いながら、現地の人たちの願いを現地の人と共に実現していくためにプロジェクトの優先順位を考えていくことにした。帰国後カンボジアオフィスのシモーヌと打ち合わせを重ねる中で、水路の建設と並行して小学校を建てることになった。7つのコミューンが点在するモーン地区には少なくとも2つの小学校が必要だということになり、クバルムース村へは世界銀行の支援により建設し、もう1つボップイ村を
CMC が受け持つことになった。
2004 年2月26日第8次スタディツアーで、全国から16人がモーン地区に入り学校建設予定地のボップイ村を訪れた。バッタンバンから国道5号線を南下する時は、カンボジアの道路も随分道らしくなったと感心していたが、右折したとたん状況は一変した。相変わらずの悪路。とても道と呼べるものではなく、砂ぼこりで前は見えないうえに、いたる所で道は寸断され、四駆がひっくり返りそうな状態で喘ぐように進んだ。平均時速は約10
km だった。
ボップイ村では建設予定の学校で学ぶことになる子供たちが総出で出迎えてくれた。 CMC の旗を先頭に入場したメンバーは子供たちの笑顔と拍手によって、悪路の疲れが一瞬にして吹き飛んだようだった。式典にはモーン地区を管轄するモールセイ郡の知事や教育部長も挨拶に訪れ、学校建設に対する期待の大きさが窺えた。式典の挨拶の中で私は、地雷原の中で厳しい生活を強いられている村人に対し、 CMC として同じ地球人の立場から支援すること、そしてその支援は日本の子供たちをはじめ多くの人々の善意によって成り立っていることを伝え、学校完成後2年間教師の給与を含む運営費を負担することを約束した。挨拶の後、建設のための着手金を手渡し、ここに学校建設が始められることになった。喜ぶ子供たちと交流交歓の後、メンバー全員でできたばかりの CMC ソングを合唱した。
この学校建設には、私たち NGO にとっては大きな資金を必要とするため、建設を決意したときから各方面に協力を呼びかけていた。西日本新聞社をはじめ、マスコミの協力も得ていたが、それによって数人からの善意が寄せられた。ある日、電話をとると福島県の人からであった。安倍さんというお寺の住職をされている人で、カンボジアで苦しんでいる人たちの役に立ちたいと言われる。ボップイ村での学校建設の話をすると、是非それに協力したいという。本来なら自分もカンボジアに同行して子供たちと会いたいところだが、病のため歩くことが困難なので
CMC に托したい。顔も知らないあなたを信用して送金するのできちんとやって下さいとのことだった。お金が振り込まれたのは、第8次ツアーの出発3日前の2月17日であった。帰国した私はさっそく建設予定地や子供たち、そして式典の様子を写した写真やビデオ、そして感謝状を持って福島へと向かった。3月になり、福岡や東京ではすでに桜の便りが聞こえていたが、北国福島では安達太良山などで人々がスキーを楽しんでいた。安倍さんの自宅を尋ねる予定で電話を入れると、すでに福島医大に入院されたとのことだった。病室に伺うと、安倍さんは酸素マスクをあてられ、とても苦しんでおられる様子だった。安倍さんの手を握り感謝の言葉と、ボップイ地区の様子を伝えると苦しみながらもうなずいておられた。看病についておられた奥さまに話を伺うと、私がカンボジアから戻るのを心待ちにしておられたとのことであった。一連の報告を奥さまに説明し、病院をあとにした。翌日胸騒ぎがして電話を入れて、愕然とした。私と会ったその日の深夜に息を引きとられたというのだ。初対面が最後の出会いとなってしまった。大きな衝撃を受けると共に、運命的なものを感じずにはいられなかった。建設予定の小学校に安倍さんの名を残し、カンボジアの子供たちにそのことを伝えよう、私はそう決意した。
学校の建設は主に村人たちの手で行なわれた。設計はシモーヌが担当し、第8次ツアーでカンボジア入りした CMC の古川純平 ( 当時26歳 ) が現地駐在員として留まり、本部との連絡にあたることになった。日本で通常見られるような、大型トラックで資材を運び、重機を使って基礎を打つなどということは想像すらできない。まず、それらの通れる道や橋がない、動かす電力もない・・・。資材は現地生産、現地調達である。 2004 年 3 月 1 日、工事が始まった。基礎のための穴を掘る作業からだが、掘るための道具も手作りだ。4月2日、掘った穴にセメントを流し込み鉄筋を入れる。4月10日、木枠を作ってセメントを流し込み柱を建てていく。こうした作業が酷暑の中で、進められていく。4月、5月はカンボジアの乾期の中でももっとも暑く、特別に暑期と呼ばれている。もちろんエアコンや扇風機はない。毎日が40度前後の熱暑の中にありながら、のどの渇きをいやす水がない。水道どころか汲みあげる井戸さえ無いのだ。村人は4 km も離れた大きな池まで2時間以上もかけて毎日水を汲みに通わなければならない。茶色のにごった水を大事にしながら飲んでいる。( 37,38,39 )4月13、14、15日にカンボジアの正月を迎えた。この時期はみんなでお祝いをし、休暇をとる。当然作業も休止、約2週間ストップした。5月に入って、工事が再開、レンガ積みが始まる。子供たちも作業を手伝い、バケツリレーでレンガやセメントが運ばれる。ここにきて、窓や扉の枠ができてきた(5月12日)。ちょうどこの頃、 2003 年第7次スタディツアーに参加した看護学生の山本ゆかりがバッタンバンを訪れた。卒論研究としてカンボジアでの医療調査を行なうためである。私は山本のために CMC が支援しているエマージェンシーホスピタルをはじめ、いくつかの病院に紹介状を書き、古川純平に現地での案内を依頼、同時に、学校建設資金の一部を山本に託した。山本は現地に無事到着すると、さっそく古川と一緒に各病院を訪問し、医療スタッフ数、患者数、その男女比や年齢構成、傷病者の数の順位、必要な物資などについて調査を進めた。病院側は全面的にこれに協力してくれた。
一方で、町や村の住民の病気や病院に対する意識調査をするために、バッタンバン市やモーン地区に入り戸別訪問によるアンケートを行なった。学校建設現場のあるボップイ地区の或る家を訪れた時、彼らは驚くような光景に出会う。全身に火傷を負い、上半身の皮膚がただれ、目を背けたくなるような姿の少女がいたのである。彼女の名はソパニン(10歳)。炊事のためぐらぐらとたぎっていた熱湯を誤って浴びてしまったとのことだ。それは5ヶ月も前のことで、タイの病院に運んだが、お金がないため手術を受けることができず、期限の切れた薬だけをもらって帰っていたという。今では肉が剥き出しになり、膿が出てきている。そばにいた祖母はその傷にたかる蝿を追うことしかできなかった。古川と山本の判断で
CMC が支援しているエマージェンシーホスピタルに運びたいということになった。本部へも緊急のメールが入った。四駆をチャーターし悪路を病院に運ぶ。病院側は快く受け入れてくれ、無償で皮膚移植を伴う大手術を施してくれた。このまま放って置くと致命的であっただけに、無事手術が終わったと聞いたときは感謝の念がこみ上げてきた。現地にスタッフがいること、そして戸別訪問の重要性が改めて証明された。山本ゆかりから建設費の一部がシモーヌに手渡され、この間も学校建設は着々と進んでいた。屋根の建設が始まり、学校名が入る正門の作成も行なわれた。建設現場の隣では藁葺き小屋の教室から子供たちが待ち遠しそうに顔を出す。
6月に入ると屋根も取り付けられ、内装工事が始まった。同時にその周りでは政府組織 C-MAC (カンボジア・マイン・アクション・センター)による地雷撤去が始まり、 6 月11日、至る所に地雷原を表すドクロマークの標識が立てられはじめた。
まさしくボップイは地雷に浮かぶ村なのだ。これまでドクロマークが無かったのは安全だということではなく、調査すら行なわれていなかったということなのだ。学校に通う子供たちに被害が出ないようにするために、8月までの2ヶ月で撤去活動を終えるという。学校の建設と地雷の撤去が競争のように、同じボップイ地区で繰り広げられる。正門ゲートに学校名がクメール語、英語、日本語で入れられていく。「 CMC ボップイ安倍小学校」――安倍さんの名を冠した学校がいよいよできる!古川純平からのメールでそれを確認したとき、まさに感無量であった。外観が出来上がってくるにつけ、中に入る机などが必要となってくる。机、椅子を作るのはヨアン先生だ。藁葺きの教室で教えるただ一人の先生だった。教育の機会が無い子供たちに勉強を教えるために、ほとんど無給で教師を続けてきている。「子供たちは学びたがっており、私はそんな彼らが大好きだ」というヨアンは政府から40ドルを2002年に一度もらったきりだ。新しい学校ができたら CMC は3人の教師を採用する予定だが、当然ヨアンもその一人、そして毎月30ドルの給与が支給される。9人もの子供がいる大家族のヨアンは、その日を楽しみにしながら机作りに精を出した。6月25日、学校の敷地内にもドクロマークが立てられた。子供たちがいつも遊んでいた場所がいよいよ探査されるのだ。校舎では教室の床張り工事の真最中、石、竹、砂、セメントが順に重ねられていく・・・と一人の子供が飛び込んできた。不発弾が見つかったのだ。校舎からわずか150 m の位置でそれは発見された。午後3時、すべての作業が中止され不発弾が処理された。合図の笛が鳴らされ、一瞬の静寂の後ドーン!という轟音と地響き。地雷探査開始からほんの2週間で、ボップイ地区の建設現場付近で11個の地雷と今回の不発弾が発見された。6月30日、正門の門柱に学校名を記したサインが取付けられ、校舎も完成に近づいた。子供たちが感謝の気持を表すために絵を描き始めた。この小学校は CMC の呼びかけに応えてくれた安倍さんをはじめ多くの人たちの善意、そして全国の子供たちの募金活動などによって作ることが可能となり、シモーヌや村人みんなで作り上げたものだ。
学校がついに完成したとの報を受け、落成式が挙行されることになった。期日は2004年7月5日。 CMC を代表して私が出席し、今回は西日本新聞国際部が同行取材するという運びになった。私は7月2日に日本を発ち、バンコク経由でシェムリアップから入国することにした。西日本新聞からはバンコク支局長の宮原記者がインドネシアで開かれていた ASEAN (東南アジア諸国連合)の会議終了後、合流することになった。2日夕刻、バンコク・エアウェイズの PG942 便でシェムリアップに降りたつと古川純平が迎えに来ていた。すっかり日焼けして、逞しくなったように見えた。2月末に別れ4ヶ月間の現地滞在の間にすっかりカンボジアに溶け込み、多くを体験することによって自信もついてきたようだった。お互いの無事を喜び、報告をして当面の予定を打ち合わせた。この間、日本でも数多くの報告会や講演会、学校での授業も行ない、6月には福岡ドームでのチャリティ野球を成功させていた。3日の夜、宮原記者が合流した。翌朝、アンコールワットのすぐ近くにあるモンドルバイ村の希望小学校へ。ここは地雷被害者が多く、チュンピカ村(障害者村)といって差別を受けた結果、子供たちが一般の学校へ行けなかった村だ。そのため、日本の緒方さんという女性が支援して、小さな学校を作っていた。その校舎の移築に際し、2003年2月に 福岡市 立香椎小学校がフリーマーケットで得た募金をもとに、 CMC が建設資金を出していた。宮原記者は、その当時新聞紙上でこのことを記事にしてくれていた。子供たちは元気に大声を出してクメール語の勉強をしていたが、藁葺きの校舎はすでに傷みはじめていた。継続した支援が必要だ。アキラの地雷博物館に行く。アキラは旅行ガイドブックにも載るほどすでに日本でも有名だが、今は認定 NGO 化に向けて多くの孤児を育てながら懸命に生きている。 CMC はこの2月にアキラにも支援金を手渡していた。博物館にはアキラ自身が撤去してきた対人地雷や対戦車地雷、不発弾が火薬を抜かれて山積みにされている。その博物館を訪れる旅行者に地雷の恐怖やその威力、撤去方法などを説明しているボランティアスタッフの1人に中里和人さんがいた。彼は昨年12月から博物館に寝泊りし、アキラと共に山野、密林に入って地雷撤去や食料になる野生動物の捕獲をやってきていた。 NGO の地雷撤去を見たことがないので同行させて欲しいという彼の依頼を受け入れることにした。学校の落成式の後、 MAG の地雷原に入ることになっていた。バッタンバンに向かう四駆は私と宮原記者、古川、中里、そしてドライバー、日本的にいっぱいになった(カンボジア的にはその倍は乗れる?)。全身大火傷を負ったソパニンをエマージェンシーホスピタルに搬送するときも同じ四駆を使っていた。
シェムリアップはさすがに世界遺産アンコールワットの町、その周辺の道路はちゃんと舗装されている。しかし10分も走ると国道6号線はナショナルロードとは思えないカンボジアンロードの顔を見せ始めた。聞こえるのはお互いやカンボジアのことなどを話す声から、ドンドンという車底を打つ音に変わった。しゃべると舌を噛みそうになるのだ。途中壊れかけた橋にさしかかると、子供たちが安全な場所を誘導し、ちゃっかりお金をせしめていた。シソポンの町から国道5号線に入ると道は再び良くなり、約4時間でバッタンバンに到着した。シモーヌと翌日のセレモニーの打ち合わせをし、労をねぎらう。7月5日、落成記念式典の当日を迎えた。朝4時におき、挨拶の原稿を書く。7時、ボップイへ向け出発、5号線は順調だったが、右折以降の悪路でついにパンク。カンボジアの道には四駆も勝てない。予定より遅れることを会場に伝えたいがその術もない。携帯電話すら通じないのだ。スペアタイヤと交換するが、次にパンクするとアウトである。はらはらしながらも村に近づいた。ドクロマークが見えてくる。正面ゲートの前に子供たちが並んでいるのが見えたので、少し手前で車を降りる。パンクで到着が遅れたにもかかわらず、炎天下、子供たちはずっと待ち続けてくれたのだ――車に乗って通過するのは申し訳ない。拍手で迎えてくれる子供たちに応えながらゲートに目をやる。「
CMC ボップイ安倍小学校」――感動した。着飾ったシモーヌの娘ソマラにレイを掛けられる。約1時間遅れて開式。まず、僧侶による祝福の祈りが始まる。私たちも州や郡の代表たちも跪いて祝福を受ける。続いてカンボジア国旗の掲揚。子供たちが作法に則って厳粛に国旗を取り扱い、緊張した面持ちで掲揚していく。郡知事がカンボジアの将来にとっての教育の重要性と
CMC への感謝、地域住民の喜びを丁寧な言葉で述べた後、私からの挨拶になった。私は CMC のこれまでのモーン地区とのかかわりについて話した後、学校名に安倍さんの名を冠した理由、日本の多くの人たちの善意によって建設資金の調達ができたことなどを述べ、子供たちに勉強して立派な人に育つよう期待を込めてスピーチした。(別紙)ここで子供たちから
CMC の援助や学校建設への感謝を込めた歌が披露された。何度も練習したらしく、みんな私の方を見て、笑顔で歌ってくれた。その瞳は希望にきらきらと輝いていた。バッタンバン州の代表は深い感謝の意を表しながらも、今だに厳しいカンボジアの現状を訴え、水、道路、医療、教育の分野において、引き続き支援が必要であることへの理解を私に求めてきた。いよいよテープカット、新校舎前に集合した参加者全員が見守る中、関係者の手によってテープにはさみが少しずつ入れられていく。私のあと、州代表によってついにテープは切り落され、校舎への入場となった。塗りたての壁の匂いが残る教室に、ヨアン先生と子供たちの手による真新しい机と椅子が並んでいた。外に整列している子供たちにプレゼントのノート
2 冊と風船を1人ひとりに手渡して、学校落成のセレモニーは無事終了した。
終了後、ヨアン先生が家に寄ってほしいとのことだったので訪ねた。その高床式四阿風住居はまさにドクロマークに囲まれるようにして建っていた。ヨアンは私たちに心からの感謝の言葉を述べた後、画用紙の束を見せてくれた。それは校舎が完成に近づいた頃、子供たちが心をこめて描いた絵であった。私はその絵を日本の多くの支援者に見せるために大切に持ち帰ることにした。また、新しい学校には水の施設が無く、飲み水はもちろん手を洗ったり掃除をしたりするための生活用水が無いため、トイレも作れないとのことだった。シモーヌと相談して、まず雨水を蓄えるための貯水池を敷地内につくり、次にトイレを作ることになった。学校に必要なものはまだまだある。それらを1つずつ充たしてゆかねばならない。
翌6日、 MAG の地雷撤去現場を視察した。 MAG のバッタンバンオフィスから国道10号線をパイリン地区方向へ走ること2時間半で TA KROOK (タックル)村の地雷原に着いた。ここは女性スタッフ15名だけで地雷撤去をやっている現場だった。私たちのために現場に来てくれたバッタンバン地区責任者のモノ氏とスーパーバイザーのソマラさんの説明を聞き、地雷原に入る。1月から始まった作業により36個の地雷と43個の不発弾がすでに処理を終えられていたが、その日もタイプ69型の対人地雷が発見されていた。地雷原を初めて訪れた宮原記者と、 NGO の撤去現場の経験が無い中里さんはやや緊張した様子であった。今回も地雷原に入るに際してはヘルメットやプロテクターを着用したが、その重さと暑さは、酷暑の中で黙々と撤去作業を続けるディマイナー達の労苦を推察するに充分であった。
明けて7日、エマージェンシーホスピタルを表敬する。先方は CMC が継続して支援していることに厚い信頼を寄せていて、常に好意的に受け入れてくれる。責任者のエイク・ヘイドゥン氏は母国へ帰国中だったが、代理のソニアさんに私へのプレゼントとして額装切絵を2幅とTシャツを托してあった。入院患者について尋ねると、7月は雨期で人の動きが少ないため、地雷被害者の数は乾期ほど多くないとのことだった。しかし、手術室に入ってみると、農作業中に地雷被害に遭い左手と左目を奪われ、右手に大怪我を負ったソンルーンさん(38歳)の施術中、その隣には右足を吹き飛ばされたニエン・パウさん(32歳)が横たわっていた。毎日被害が起きている現実は変わっていないのだ。
今回の病院訪問の目的の1つ、ソパニンちゃんに会う。おばあちゃんがそばについていた。日本から運んできた風船あげると、口にあて少し膨らませた。ソパニンの顔に笑み浮かんだ。「火傷を負ったソパニンを発見して以来、彼女が笑顔を見せたのは初めてです」――純平が興奮気味に語った。ボップイ村のヨアン先生宅でソパニンの母親に会ったとき、手術後の経過を大変心配していたのでドクターに尋ねると、順調に回復にむかっているとのことだった。おばあちゃんは私に手を合わせた。病院の存在や、困難への対処の方法を村民の多くは知っていない。そしてそのことが、より多くの困難や苦痛を与えているという現実がそこにはあった。
私がカンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)を立ちあげ活動を始めて7年目を迎えた。その間、試行錯誤を繰り返しながらもカンボジア現地に足を運び、その現実を日本の人々に伝えていくという行為の中から様々な人との出会いが生まれ、支援の輪が広がってきた。講演会や写真展、そして学校での授業・・・それらを通じて街頭キャンペーンなどを共に行なう仲間もできてきた。平和で豊かな日本で生活している日本の子供たちが、同じアジアにありながら学校へも行けず、ゴミの山で働いたり、親に捨てられたり、地雷被害に遭ったりしている子供たちがいることを知ったとき、彼らの瞳の輝きが変わるのを私は何度も見るようになった。地雷原の村モーン地区。そこに「CMCボップイ安倍小学校」を作ることができたのは、まさに全国の子供たち、支援者、地球人として自分にできることを考え行動した人々の善意の賜である。 |