■ブンヘイ君をとりまく環境
家族はブンヘイン君、母親、妹1人、弟2人の5人。父親は、事故の起こった年と同じ2005年、病気のため、35歳で亡くなった。また、2007年4月22日(我々が訪問した1週間前)、15歳の姉が糖尿病のために亡くなったばかりだった。母親は炭を作って1日約1,75ドルの収入を得ていたが、ここ最近は病で動けない長女を看病し、仕事はできなかった。
CMCが現地事務所を置くバッタンバン州の都市部からタイ国境へ向けて凸凹道をバイクで約2時間走ったところにラタナモンドール郡はある。ここはカンボジアの中でも地雷・不発弾の被害が特に多い地域である。ブンヘイン君の家もここに位置する。
■事故の日
1日の昼過ぎ、ブンヘイン君はいつものように牛を連れて家を出た。牛の世話は彼の日課である。そして家から3キロほど離れた田んぼで牛を見つつ、ブンヘイン君の左手は吹き飛ばされ、右手の薬指と小指、右足の中指の一部も爆発によって損傷した。事故直後、ブンヘイン君は意識を失った。一緒にいた友達も怪我をしたが、意識はあったのですぐに助けを求めて自宅の方へ走った。そして事故を聞きつけたブンヘイン君の叔父がすぐさま現場へ駆けつけ、彼を家まで運んだ。この地域には重症患者を治療できるような病院はない。それでブンヘイン君は母親と祖母に連れられ、タクシーで約1時間半かけてバッタンバンの救急病院EMERGENCYに搬送された。運賃は約30ドル。これがカンボジアの現実である。緊急事態にも関わらず通常以上の料金を支払わねばならないのだ。裏を返せばそれほどこの国の人々の生活が切羽詰っているということである。
ブンヘイン君は意識を取り戻した直後、傷ついた自分の身体にショックを受け、「ごめんなさい。全部ぼくが悪いんだ。もう生きていけないよ。死んだほうがましだよ。」と涙を流しながら話したという。それからEMERGENCYに半月ほど入院し、自宅へ戻った。それから病院へは2回ほど治療のために訪れたという。
ブンヘイン君は事故当時小学校4年生。事故後もしっかり学校へ通っていたが、由見駐在員の訪問時、進級できずに未だ4年生のままだった。
弟たちとブンヘイ君 |
牛飼いの手伝いをするブンヘイ君 |
ブンヘイン君は苦しい家計を支えるために午前中に授業を終えた後、午後は毎日弟や妹の面倒をみたり、食事の支度をした。母親の気持ちを汲んで、進んで家の手伝いをしていた。
被害にあってもこうしてめげずに頑張り続ける彼に、CMCの地雷被害者のためのラジオ番組「VOICE OF HEART」のポスターのモデルとなってもらった。 |
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