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事故直後、すぐに近所の人が地雷撤去団体に連絡して彼らの車でエマージェンシーホスピタルまで運んだ。この時、母は国境付近の村に出稼ぎに行っていたので、彼には叔
父が付き添っていった。コムリットは当時のことをこう語った。「地雷を踏んだ時、初めは何が起こったか分からず普通の気持ちだったが、大量に血が出ている
のを見て怖くなった。しばらくしてすごい痛みがはしった。」後で病院に駆けつけた母親は、「病院で彼を見たとき、とても怖くなり心配だった。そしてこれ以
上治療することはできない、彼はもう生きられないかもしれないと思った。」ととてつもない不安と心配が彼女を襲ったようだった。 |
■センターへ
入院後について、母親は頭を悩ませた。そんな母親に代わりコムリットの伯父が彼を生活環境やケアを提供してくれるセンターにいれることに決めた。(母親は教育を受けておらず、何がいいか悪いか判断できない。大事なことはいつも伯父が決めていた)。学校へいけない、養うことも厳しい、ホームレスになったら・・・と彼の将来を懸念した伯父の決断だ。
センターはバッタンバンから車で1時間ほどいったシソポンにあった。センターには100人の子ども達(7才~21才)が生活。大きな宿舎の他に、学校、グラウンドを併設。1ヶ月、1人あたりに食べ物、服、その他を含め約900バーツ(2500円)のお金をかけている。センターでは数人の子ども達に1人のお母さんがつく。リットは7人の子ども達と一緒に大きな板張りのベットで一緒に寝た。
井上駐在員が彼を訪れたとき、小学校5年生。毎日2回通学。朝はセンター内の学校で勉強。午後は公立の小学校で勉強していた。 |
センターでのお母さんとコムリット君
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病院を退院した後も、3回再度エマージェンシーホスピタルを訪れ、バッタンバンにあるICRC(義足を作るセンター)にも一年に一回は通っていた。子供の地雷被害の場合、このように退院後も何回も病院に通う必要がある。それは子ども達が成長過程にあって足を切断したとしても骨だけが成長しむきだしになってしまうからだ。そしてすごい痛みが走るという。そこで骨の切断のために手術を行なう。そして義足も成長していく体に合わせて大きさを変えていく必要がある。
子どもは大人の被害者に比べ、事故にあった後も継続したサポートが必要だということから、貧困層過程が子どもを育てていくというのはとても難しいということが分かる。
事故後、5年間、コムリットが村に帰ったのはたったの二回。そして母親には一回しか会っていない。井上駐在員が母親に寂しくないかと尋ねたとき、彼女はか細い声で、でも力強く「寂しい」とこたえたという。親子が離れざるを得ない環境に彼らはいる。
井上駐在員は、なぜ彼をセンターに入れてしまったんだろう、という疑問を持っていたが、家族の経済的な事情や生活環境を見て、そうせざるを得ないという状況を知った。彼らの辛くても最善と信じた選択だった。
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