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 2月24日(火) ゴミの山(ステン・ミェン・チャイ)、ヘルスセンター AAR
移動日を含めたツアー2日目の2月24日、私達はプノンペン郊外にあるゴミの山(ステン・ミェン・チャイ)とそれに併設するヘルスケアセンターを訪れた。
プノンペン市内から約30分バスは走り、一つの角を曲がった途端、目に飛び込んで来た物は正しく”ゴミの山”であった。
1950年〜1960年頃カンボジアの首都プノンペンに作られたゴミ処分場は、日本のそれとはほど遠い状況、メタンガスの発生による自然発火で辺りは霞んでおり、現場に近づくにつれて、バス内にも異臭を感じる程であった。
東京ドーム2つ分の面積のこの場所は、プノンペンで廃棄される全てのゴミが40年間捨て続けられてきたため、既に許容範囲を超え限界に達している。
生ゴミが腐って発生するメタンガスは、気管や咽頭に強い刺激を与え、金属性のゴミは毒性が強く、体内に迷入し、肺や脳にまで侵襲する。
ゴミは家庭ゴミだけではない、日本では『危険物』の指定がなされ、特別廃棄が行われる『医療廃棄物』までもが当たり前の様にゴミの山で処分される。
この医療廃棄物の一部である注射針から種々の感染症に感染することも少なくないと言う。

メタンガスが立ち込め霞むゴミの山、例え様のない悪臭が鼻をつき思わず鼻と口を覆いたくなる。
この劣悪さは、何年もの間変化がなく、これからも続くであろう。
この劣悪な環境の中で、ゴミを拾い生活をしている人々が沢山いるのである。プラスチックやビニール、アルミニウム等を拾い、換金する事で収入を得る。

実際にその方々に話を伺うためバスを降りた。

バスを降りる直前、私たちは靴をビニール袋で覆った。ゴミ山の臭いが靴にしみつき残ってしまうからである。

ゴミ山内での事故で死亡した
スレイ・マウちゃん(16歳)
処分場では、ゴミ収集車が次々とやってきてはゴミを捨て、また去っていく。捨てられたゴミを、ブルドーザーがならしに来る。収集車とブルドーザーの周りには、いち早くゴミを拾おうとする人々が集まってくるが、車の方は人などお構いなしに走行する。

車と人との距離は非常に近く、とても危険である。実際、私たちが訪れた10日前の2月12日、収集車の上に乗っていた鉄製のゴミ箱が落下し、16歳の少女が下敷きになり、翌朝死亡する事故があったばかりであった。
今回、このゴミの山で働く子供を含め、数名に聞き取りを行った。学校に通いながらゴミを拾い、生活をしている子供。学校に行きたくても行けない子供。子供達が1日働いて得ることのできる金額は平均2,000リエルから3,000リエル(1ドルは4,000リエル)日本円にすれば50円ほどである。世界的な不況のあおりを受け、子ども達が稼げる金額は昨年よりも減少していた。
ダニーちゃん 10歳
父親・母親・姉・妹・弟の6人家族

両親もゴミの山で仕事をしている。主にプラスチックとアルミニュウムを集めており、彼女の収入は1日2,000リエル
学校は午後の授業13:00~17:00
将来は学校の先生になりたい
ゴミの山のど真ん中で商売をするかき氷屋さん。1杯500リエルで、1日100杯以上は売れると言う。

彼(スナーさん 28歳)はプノンペンへ出稼ぎに来ているそうである。

近年、このゴミの山の移転計画が出され、2009年の早い段階でキリングフィールド近郊へ移転される予定となっており、現在工事中である。
2003年~2005年JICAによりプノンペン行政のゴミの捨て方などの調査に着手、2006年都市環境美化計画を立て、プノンペン市とJICAは契約を結んだ、しかし、プノンペン市は2002年からカナダ系のシントリー社と40年程の長期に渡る独占的な契約を結んでおり、JICAはシントリー社との契約見直しを提案したが、見直しは検討されず、残念ながら2008年3月JICAは計画を打ち切ることとなった。
ロム君 13歳

父親と母親と暮らしている。
父親がバイクタクシーの運転手。学校に通学中、ゴミの山での1日の収入は2,000~3,000リエル。
ここには傷病者が沢山いるため、その傷病を改善させたいと思う
将来はDrになりたい。
カンボジアには地雷以外にも様々な問題がある、私達が便利に扱うビニールや、プラスチック等は、焼却施設がないカンボジアでは、環境問題になる。一方で、そのゴミを集めなければ生活が出来ない人々がいる。
シントリー社との契約年数を考えると、ゴミ山がなくなることは、これから先40年近くないのであろう。だとするならば、カンボジアの環境はさらに悪くなる。生まれながらにしてこの場所で生活をする人々は、ゴミの山の危険性や劣悪な環境は日常のことであり、その危険度や劣悪さを伝えても、深刻さはなかなか伝わらないと言う。この現状に対し、私達はどの様に取り組めばよいのだろうか…突きつけられた現実に、複雑な思いを抱いた。
ゴミの山の視察後、隣接するヘルスケアセンターを訪れた。
このヘルスケアセンターは、ゴミの山で働く子供達や、プノンペン周辺に住む子供達を対象に、学校教育(国語・算数・英語など)と職業訓練(美容、ヘアカット、縫製など)を無料で行っており、1997年からの生徒総数は300人を超える。スタッフは10名、内4名はボランティアが勤めている。

クラスは午前・午後6つのクラスがあり授業時間は1クラス1日60分。通ってくる子供達のほとんどがゴミの山で働いている為、1クラスの授業を1日1時間しか設けられないのだ、それ以上の時間を費やせば、子供達の収入が減る。
ごみの山で働く子供達の親は皆貧しく、子供自身が働かなければ生活出来なくなってしまうのである。2月12日に亡くなった16歳の少女も、このヘルスケアセンターに通学していた。彼女は周りのみんなから、スレイ・マウの愛称(本名:ガッチャン・クン)で親しまれ、明るくとても勉強熱心で、将来は美容の仕事に就きたい、と一生懸命授業を受けていた。彼女を襲った悲しい出来事を、彼女の最後の姿となった病室での写真と共に、ソー・ソハラ校長は涙ながらに語ってくださった。
高学年の子どもが低学年の子をモデルとして、髪の毛を結う練習をしていた。日本もカンボジアも女の子はやっぱりおしゃれが大好き!
4歳~6歳児のクラス。
クメール語の母音・子音の発音の授業中
子供達は大きな声で元気よく発音の練習をしていた。
子供達は学業へ対する向上心が強く、ヘルスケアセンターを卒業後も学業を続けたいと望む子供達は、親の了承が得られれば、国立学校への入学試験を受けることが出来る、合格すれば通学することが出来るシステムもあるそうで。一部の子供は国立学校へ進学しているそうだ。

国立学校の授業料は、各個人が支払うシステムになっており、ヘルスケアセンターでは、進学した子供達の生活状況や、通学状況など1人1人の子供達へ接し、直接話を聞くなどのケアも行っているとのことであった。

厳しい現実を背負う子供達…だが、その現実を忘れさせる勢いで、屈託のない笑顔で、私達に真正面からぶつかってくる、ヘルスケアセンターの子供達は本当に人懐っこく、素直で無邪気であった。そんな子供達に私達も100%で向き合った。

撮影中でもお構いなしに背中に飛びつく子供達
子供を背負ったまま、片手でカメラを支えながら撮影を続ける。明 博史 現地駐在員

昨年同様、子供に群がられ『ヤス!ヤス!』とみんなから大人気!
砥綿 泰弘 前年度現地駐在員
1人抱き上げると2人、3人と子供達が抱きついてくる。抱き上げても、抱き上げても抱き上げ足りない…背後には子供達が働くゴミの山がある。
子供達が可愛いと感じつつも、この実状の裏側にはあるのは愛情不足ではないか、と複雑な思いを抱いた。私達の旅が続く中、子供達の存在は、2、3日続いた筋肉痛というかたちで、私達の心と身体に刻み込まれた。カンボジアの厳しい現実、しかし、子供達はもろともせず、明るく、元気良く、目を輝かせながら楽しそうに学び、遊ぶ。その姿を見て、この子供達こそが、カンボジアを立て直す原動力になり、カンボジアの未来を担うのだと実感した。
カンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)の大谷代表は10年前からこの地を訪れヘルスケアセンターのソーパラ校長を支援してきている。今回も子どもたちの健康や勉学のために少しでも役立つようにと日本の支援者から頂いた物資を贈呈し、最後に子どもたちとツアー参加者全員で写真を撮り、ゴミ山と子どもたちに別れを告げた。


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